web版 1/fって何すか。#81

eggmanのフリーペーパーのアーカイブ公開から始まって、web版コラムを書き始め、「1/fって何すか。」80遍。
毎週金曜日更新を掲げるも、セルフプロデュース能力の欠如ゆえ、今日も今日とて、土曜日なう。

フリーペーパーの方はわりと思想強めの文章を寄稿し、web版の方はふんわり系を書くように心がけている。文章読んで気が晴れることってたくさんあるし、音楽と同じくらい私も文章に救われてきたので。

で、ここでまた、セルフプロデュース能力の欠如ゆえ、今日も今日とて、ルール違反を働く。

“尊厳死と安楽死って違うのかっていう話。”

(気が進まない方は読まないでください。すいません。)

最近、このことがどうも頭のなかでうろうろしてて、まるで車を運転してて窓の隙間から小さい虫が入ってきて、運転に集中できない、そんな感じ。なので、ちょっと決着をつけることにした。

わたしは、「その二つは分類ではなくて、分類するためのヒント」だと結論づけた。

なので、違うといえば違うし、同じといえば同じだと思う。

そして、「それを区別したいのは、実行する側であり、さらに遺された側も」だと思う。
家族とか恋人とか友人とか。

世の中には、答えを探しても、そもそも答えが存在しないクエスチョンがいくつかあると思う。答えがないのだから、答え合わせがでない。
しかし、だいたいそういうクエスチョンは、RPGのゲームみたいに、答えをださなければ次にステージには行けない厄介なものが多い。
(もちろん、クレバーな人は早々に諦めて、別のステージを探せたりするのだろうけど)

尊厳死と安楽死という言葉がどこのだれがつくった言葉かしらないけど、これらは、答えではなく、「ヒント」だと思う。

それぞれのケースには、それぞれの答えがあって、答えを出さないといけない側は、このヒントをつかって、オリジナルの答えをだして、答えあわせはできなくとも、次のステージのドアの鍵を手に入れるのだと思う。
神様仏様が登場してきてもよいし、運命だと決めつけてしまってもよし、輪廻転生って話もある。私はいまのところどれにも興味はないけど、それは私がまだそういう体験をしていないだけだとも思う。

というのが、いまのところの私の考えです。
当初の目的はこれを書くことで、運転中の車に紛れ込んだ虫を退治することでしたが、残念ながらその目標は達成できませんでした。
ただ、その虫はバタバタと音を立てて飛び回るのをやめて(いまのところは)、後部座席のあたりでジッとしてきます。
お付き合い頂き、有難うございましたm(__)m



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?