1/fって何すか。2016.1月号
海の真ん中で、一隻の小さな船を浮かべ、それに乗って「釣り」をするのです。一人きりで。
釣竿を握りしめて、ただひたすらに待ちます。海の底にどんな魚がいるかは分からないけど、ただひたすらに待つのです。これが「釣り」です。
〈海〉とは私の「無意識」です。
そして〈船〉は私の「意識」です。
私が知り得るのは〈船〉の上のことだけ。そこから「無意識」の〈海〉とへ糸を垂らすのです。
こちらから魚を捕まえることなんてできません。あちらから、こちらへ、「無意識」の海から、「意識」の船へ、魚が向かってくるのをただ待つのです。どんな魚がそこにいるかは分かりません。美しい魚かもしれないし、恐ろしい魚かもしれない。
〈魚〉こそが、“自分も知らない自分”です。あるいは、それが“本当の自分”かもしれません。それを「気質」とか「本質」とか、あるいは「たましい」とか呼んでも構いません。そして、作家なら「物語」、作曲家なら「メロディー」へこれらを投影するために、しばしば彼らは探求への釣りへ出かけます。
〈釣竿〉は肉体です。獲物がかかった時にそれを引き上げる肉体が必要です。これが弱いと、いつまでたっても、その魚に出会えることはありません。
〈餌〉は、何にしましょう。
とっておきの〈仕掛け〉もあるかもしれない。これは教えてしまうと、乱獲がおきてしまうので、秘密にします。自分で探してください。
“海はとても危険です。”
いつでも岸に戻れると思ったら大間違い。突然波が高くなることもあるし、大きなサメに襲われるかもしれません。
くだらない例え話に付き合わせてしまってごめんなさい。これが、私が現段階で考える、「私」を構築する“二種類の要素”についての考察です。
私は生まれ変わりたいと思うことがあります。自分や、自分から見える世界に嫌気が指すのです。それでも生きていくと決めた以上、自分と付き合っていかなくてはならない。
何度も変革を試みました。運動をしたり、規則正しい生活をしたり、コーヒーは一日一杯までと決めています。しかし、それらは全て“船”のカスタマイズでしかないようです。私は、まだ海の底の魚に出会えていません。しかし、そもそも、海の中の魚は私に釣られることを望んでいるのでしょうか。
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