web限定版 1/fって何すか。-2020.04.10-

〈#72 ライブハウスについての考察〉

細マッチョになることにしました。
ムキムキマッチョではなく、服を着た外見からは判断ができない細マッチョ。外見からは判断が出来ないので、この騒動が収束し、人とお会いすることがあっても、私がこの宣言を達成したかどうかは誰にも分かりません。唯一人の目に触れるのは、ライブでステージを終えた後、楽屋に戻り、ビショビショの衣装を脱いだその瞬間、次の出番を控えてステージ裏に待機するバンドの人の目に、ほんの一瞬触れるのです。「変化は進化」そして「継続は力なり」。今までは趣味で公営プールに通ってましたが、しばらく泳げそうもないので、今までのルーティンを根本から見直すことにしました。

しかし、これがなかなか容易なことではなかった。ルーティンの「変化」は何となく確立しましたが、情けないほど「継続」しない。テレビで“自宅でできる簡単筋トレ”なんて番組をやっていると、「うむ。さては、このタイミングで細マッチョを目指すのは、私の他にもたくさんいそうだ。人と差をつけるには相当な覚悟が必要だ。」と、ナンセンスな不安を覚える始末。肉体の細マッチョ志向とは裏腹に、精神の痩せ具合が露呈するばかり。そんな4月の始まりでした。

 さて、同じ問題を全世界の国が同時に抱えるという事態は滅多にありません(環境問題や食料問題などを除いて。これらは今までもずっと起こってきたことですがとりあえず他人事として片付けてきましたので。私を含め。)

しかし報道のされ方は様々です。イスラム教国や、カトリック教国では、教会に信者が集まることでクラスターが発生したとされ、一部では集団礼拝やミサを中止しているようです。こんな時に神様は本当に手を差し伸べてくださるのか…という現地の信者たちの声を聞くと、遠藤周作の「沈黙」(江戸時代のキリスト教弾圧時の、長崎島原での布教家の物語)を思い出したりします。

日本では、仏教や神道が一般的とされていますが、大勢が集まって祈りを捧げることはほとんどないので、お寺や神社でのクラスターは指摘されていません。

代わって指摘されたのが、ライブハウスやクラブでした。そして私は、教会とライブハウスを並べたときに、日本人の音楽に対する信奉心を感じずにはいられませんでした。

好きな音楽、アーティストを心から愛し、その言葉に耳を傾ける姿はとても尊いものだと今回改めて思いました。

「沈黙」の中で、キリスト教布教家のロドリゴは、幕府の弾圧の中でこう言います「主よ、なぜにあなたはこのような時にも沈黙されるのか?」と。しかし、それでも彼らの信仰心の根は絶えることはありませんでした。

いつになるかは分かりませんが、音楽や芸術、文化は、必ずや、沈黙を破り、声高らかに明るい未来を示すと思っています。
いや、もうすでに多くの文化人たちがそれぞれの形で人の心に安寧を施す発信をつづけています。(SNSでは#うたつなぎ,#ギャグつなぎでミュージシャンや芸人同士が、歌やギャグの動画などをアップしています。私には回ってくる気配がありません。今まで培うべきだった人徳の無さを痛感せざるえない。これはこれで由々しき事態です。代わりにこうやって、黙々とPCのキーボードを打つ。くじけるな俺。)

前と同じように完全に元どおりになるかは分かりません。無念にも淘汰される文化もあると思います。これについては、不安がないといえば嘘になります。

しかし、私はきっとその淘汰の網を軽やかにすり抜けて立ち上がってみせようと思っています。

なぜならその時私は、細マッチョだから。

読んで頂きありがとう。

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