1/fって何すか。2015.04月号

<#14国境があった>

お久しぶりです。コラムが1ヶ月お休みの間にテスラは泣かない。の新作「ONE」がリリースになりました。これが完成したとき、おそらくメンバーは皆「もの凄いものができたから、これから、もの凄い事が起こるだろう」と夢みたでしょう。しかし今のところ、目に見えるかぎり”では、凄いことは起きていません。しかし、きっとこれから起こるだろうと信じています。そう言い聞かせています。


「国境はなかった」という新曲のMVはご覧になられたでしょうか。「私たちはまるで一人一人がひとつの国家で、独自の文化や宗教をもっているが、その境界線の引き方次第で、今まで他人だと思っていた人にも関心をもてるはず。なぜなら、その他人がもし自分にとっての大事な一人の大事な人の、さらに大事な人だとしたら、そもそも他人ではないのかもしれないのだから。」というアイデアの元に生まれた曲です。
しかし、上の文言をラジオや雑誌で何度も口にする度に、私は思うようになりました。

「村上学」という国がとてつもなく狭い国境をひき、まるで鎖国状態であると。

私はおそらく人を信じることがとても苦手で、友達をつくるのが下手くそ。(九州にかえった途端「やっぱり九州の人は…」と嬉しそうに妙な民族意識を主張するくせに。「この人は自分に心を開いていない」と思うのは他ならず「自分がその人に心を開いていない」からなのに。そももも「心を開く」って何だ。みんなには言えずにいる秘密を「貴方にだけ言うけど…」と打ち明かせることか。「嫌われたくない」という感情に始終縛られている以上そんな大胆なことは私にはできない。

私は今、変わらないといけないと日々思っている。28歳にして、何かを変えなければいけないと。少しずつ狂いはじめている人格と性格を放置してはいけない。(いや、「もともと狂っていたのが顕著になっただけかもしれないが)このままだと大事なものまで失ってしまうような気がしてたまらない。「君は君のままで良いんだ」という言葉を欲している私をどうか許して
欲しい。しかし、それでも尚、かつてギターに初めて触れた頃もっていた「純粋さ」をもう一度取り戻したいと思う。

「凄いこと」がおこるのはきっとそれからだろう。
それはもう既に起きていて、“見えるかぎり”起こっていないのでなく、私がまだキャッチできていないだけなのかもしれない。

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