1/fって何すか。2019.05月号

 <#62 菅原文太に憧れて>

 「仁義なき戦い」という任侠映画がある。1973年に第一作が上映され、「広島死闘編」「代理戦争」「頂上決戦」「完結編」と5作続く。10代の頃に観た時は、バイオレンスシーンの刺激が強すぎて2作目以降に手が伸びなかったのだが、先日地方でのライブの帰り道に車の中でふと観直し始め、気がついたら5作の全部を観終わってしまっていた。

 
 「仁義なき戦い」にはとにかく仁義もなければ、義理や人情もない。そこに渦巻くのは果てしない野望である。(もちろん一作目で主人公広能の貫く仁義には胸を打たれる。)私は、今まで山田洋次や小津安二郎のような牧歌的で人情味あふれる映画を好んできたので、任侠映画は敬遠してきた。それが、今この歳になって観てみると妙にしっくりくる。東京に来たせいだろうか、音楽業界に足を突っ込んだせいだろうか、よもや一通りのモラトリアムを終えてしまったせいだろうか。つまり、世の中そんなに甘くないし、人間はある側面でとても意地汚いということを受け入れるようになってしまったのか。世の中はキレイゴトだけでは回らないと。「どうしてしまったんだ、俺。」という気持ちに少しだけなった。純粋無垢な俺はどこなに置いてきてしまったのか。映画やドラマで血が出るシーンは手で目を覆ってしまう小心者の俺はどこへ。
 

 とか、なんとか思っていると、たまたまテレビで「仁義なき戦い」のドキュメント番組があり見てみる。いま東京丸の内で働いている50歳代60歳代のサラリーマンの男性の街頭インタビューで「仁義なき戦いは観たことありますか?」と聴くと彼らは答えた。「今でも仕事で勝負の前は必ず観ます」「菅原文太さんに憧れて同じ髪型にしています」と。なるほど。この日本の経済発展には「仁義なき戦い」という映画が欠かせなかったのかもしれない。サラリーマンもスポーツ選手も試験前の学生も、バンドマンも、自分を奮い立たせなければならない時がある。
 

 ネガティブな、暗い世界の引力から自分を引き剝がさなくてはいけないときがある。心のなかのピストルに弾をつめ、家を出なければいけない時がある。その方法は皆ひとそれぞれで良い。そして、自分たちがつくる音楽もまたそこで一役買うようなものでありたいと思う。いや、これもキレイゴトなのか?否。これは真実であり、野望である。

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