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本物ってなんだろう

 私は合成ダイヤモンドを偽物だとは言えない。なぜなら、合成ダイヤは天然ダイヤと同じ成分で構成されているし、なんならそれらよりも不純物が混ざっておらず物体としての完成度が高いと感じているからだ。天然ダイヤの価値を評価する基準にクラリティというものがある。これは他の鉱物の結晶や液体、気体などが含まれておらず透明度が高いほど価値があるというものだ。この基準があるならば、完璧な透明に近い合成ダイヤの方が同じダイヤというカテゴリーにおいて物体としての完成度が高く、その価値も高く評価出来ると感じるのだ。本物ならば偽物よりも優れていないといけない。だからこそ私は合成ダイヤを偽物と言えない。しかしながら私は以前まで「天然」と「人工」では前者の方がなぜか価値のある物だと評価しがちだった。一体その要因とはなんなのか考えてみる事にした。

・そもそも合成は天然の模倣
・天然の方が希少性が高い
・情緒的価値に重きを置いていた

これらの理由から私は天然こそ至高であると思い込んでいたのだろう。

まず、合成は天然の模倣。模倣するという事は、模倣される側に一定の価値があるという事の裏付けではないだろうか。中国企業は誰も知らないブランドの模倣はしないだろうし、モノマネ芸人も、なんの面白みもない人のモノマネはしないだろう。模倣している、されているという関係性が判断基準になっていた。

天然の方が希少性が高い。だからこそそれに比例して比較的値段も高いのだろう。それに比べ合成ダイヤは素材と装置さえあれば簡単にいくらでも生成することができ希少価値は低い。

次に、天然には情緒的価値があるという所だ。1分で選ばれたプレゼントと10時間悩んで選ばれたプレゼント、どちらの方が嬉しいか。私は後者である。時間を掛けるというのはそれだけで付加価値が生ずる。数100万年から数1000万年以上かけて奇跡的に完成された輝きだという背景からなる情緒的価値が存在しているのだろう。

「本物」とは、羨ましがられるものであり、ありふれておらず、簡単に手にできるものであってはならない。そういう既成概念は私にもあったのだ。
では、その「本物」より実質的に精巧であったり、面白かったり、ニーズがあるものを模倣したという理由だけで「偽物」と呼び過小評価してしまっていいのか私は疑問を抱いている。あるものを「偽物」と定義付けることで、「本物」と定義付けたものの価値を間接的に高めているに過ぎないのではないだろうか。そのように感じると、私にとって「本物」とはただの人間のエゴによって作り出されたもので、それを追い求める事がバカらしくなる。

あんた達は1カラット100万円の天然ダイヤのついた指輪をプレゼントされるのと、1カラット10万の合成ダイヤ10個ついた指輪をプレゼントされるの、どっちの方が嬉しい?
何も聞かされて無かったら10個のほうがゴー☆ジャスで嬉しいよね。
しかも合成ダイヤなら彼女に「本物!?」って聞かれても「本物だよ。(本物の合成ダイヤだよ)」って言えるし、別れた後に彼女がその指輪を鉢屋に出した時に報復出来るしね笑

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