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ラジオやアニメや母との日々(80年代③)

 デビューの頃のドタバタは「線」ではなくて「点」で覚えている。そう、
いろんな事をやらせて貰っていたので、「電リク」(分かるなかぁ)の電話対応でレコード室に走ったこと(この頃はレコードざんした)。携帯電話なんぞないから、無線で中継車と繋いで初めての時「何言ってんだかわっかんねーだろ!」と怒鳴られたり、提クレ(提供クレジット)すらまともに書けずにアナウンサーにどやされたり…。どやされたことは覚えているもんだ。
 で、ほぼ並行して始まったのが亡くなられた松本零士先生の『1000年女王』。今やレジェンドのH嬢やT嬢の初主役ではないかと…。
 今、思い出すとどえらいレジェンドの皆さんが『オールナイト・ニッポン』のぶち抜き5時間生放送。
 夜中に始まるのに、当日、スタッフは朝からてんてこ舞いだったと思う。
勿論、役者さんや、ゲストは生放送開始の1〜2時間まえにいらしていたが、スタッフの使いっ走りはそうは問屋が卸さない。
 スタッフピラミッドの底辺にいる私達は夜中の12時(24時)にはじまるのに、集合が朝の10時。アナログ針時計なら一回転半以上、ひたすら働く。今の局がどうなっているかは知らないけれど、今で言ったら、真っ黒けっけのブラック仕事だ。当時、そんな言葉ないですもん(苦笑)。
 きら星と輝くレジェンド声優さんたちとお近づきになる役得すら、生放送の時は持てない。勿論、番組はそれだけではないので、何本かの使いっぱ、掛け持ちという荒技。若いから出来たのだな…と遠い目をしてしまう、昨今。
 けれど、こんな大騒動のさなかにいたからか、アニメーションのプロデューサーや監督とお目にかかる事ができて、仕事の巾は広がっていったのだ。なにしろ、学研の「アニメディア」が創刊の頃から仕事頂いたり、「マイアニメ」という雑誌からもお声をかけて頂いた。
 「ニュータイプ」はもっと後。「アニメージュ」「OUT」「アニメック」は既にあったかなぁ…。
なにしろ、コレクターではないものでいろんなデータが手元にあったりなかったり、なのだ。
 とにかく、頂く仕事は拒まずになんでもやった。

 この有楽町ラジオ時代はそれほど長くないのだが、とにかく朝から夜明けまで局の中にいたので、とてもとても濃厚な時代だった。
 それがあるときを境に「出禁」を食らった。突っ込まないでほしい。人間関係って難しいのだ。まあ、ボケかましての「出禁」ではなかったので、せめてもの…という感じだ。
 そして、所属していた小さな制作プロダクションも辞めざるをえなくなり、母に
「頑張るので、しばし食わして下さい」
と、拝み倒して、フリーになったわけだが、神様はそんなに優しくない。もっとどでかい壁がドーンと立ち塞がるのを、この時は想像だにしていなかった。

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