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自己肯定感

お久しぶりです。日記です。

今日、人と話していて、自分の自己肯定感が恐ろしいくらいに下がっていることに気づきました。

恐ろしいくらいに自分に自信がなくて、自分がきらいになっていて、人のこともきらいになっているような自分に。

他人に引きずられてしまって、もう下しか向いてないような感覚。

帰り道、やっぱり上げてくれる人は必要なんだって、甘やかしてくれる人と言うか、甘えてもいいんだと思う気持ちは少なからず自分には大切なんだと感じました。

責められ続ける。何も褒められない。与えても何も返ってこない。そんな毎日は知らないうちにどんどん心を削っていて、

自分の性格や見た目まで嫌になって、顔も心も見られるのもいやで笑えなくなってくる。
必死に繕うけど、自分の写真を撮ってあげるけど、なんかちがう。ものすごくしんどい。

次第に、奉仕することや感謝することだけが善だと、愛だと、今身の回りにいる人に対して、気づいたら必死に言い聞かせてたりするけど、
きっとそんなことってないんだよね。

自分は神様でもマザーテレサでも母でも何者でもないのに、そんなに正しい人間でいる必要もないのに。
誰かの為に生きてるだけじゃない、
自分の為に成長できる道を選ばないとボロボロになるだけ。

同じ熱量や、同じ優しさを持った人、何か一つ自分と同じ気持ちがある人と一緒にいた方がいい。
本当に吸い取られるだけの関係は一つでも減らしたい。

「自分に言い聞かせる。」
自己肯定感が下がる時、気づいたらこればかりしている。
あの頃に比べたら幸せじゃん、感謝しなきゃ。
自分がわるいし、自分がよくないから、だから一緒にいてくれる人に感謝しなきゃ。

「感謝しなきゃ」そんなことばかり考えている。
しなきゃ、なんて、しているのとは全然ちがうよね。

「本当の気持ち」これは
溢れるもので、あふれる、こぼれるもので、
自然と湧いてくるものだろう。

誰かを好きとか
誰かに感謝してるとか
しあわせとかね。

「しなきゃ、」は、しあわせなことではない。

話は少し変わるけど、いつか見た夢があってそう思った。

私は京都の思い出の場所にいて、そこに昔大切にしていた人がいた。
いつもの格好でいつもと変わらず目が合って微笑み合って、
私は「久しぶりだね」と言いながら、
心の中ではただ「好き。」と言っていた。
涙があふれるみたいに好きがこぼれていた。

その夢を見た朝「溢れる」は一番うそのない感情なんだなとふと思った。

"溢れる" あふれる、こぼれる。
この言葉、この表現。瞬間的に思う気持ち。

これが「本当の気持ち」なんだなと。

あふれるような、好き、嬉しい、楽しい。

こぼれるような、悲しい、苦しい、切ない。

そんな溢れるような気持ちを持つ自分のことが好きだったなって。

自己肯定感はそんな好きな人への気持ちからも高まっていたように思う。

やさしくされたら嬉しかったから、やさしくすることの大切さを知った
可愛いと言われた数だけ可愛くなれた
ありがとうと言われた分だけありがとうと言えて
それを今度は自分からできるようになった。

自己肯定感が下がるとき、誰に対してもそれができない。
そこで気づいて、やっぱり上げてくれる人をちゃんと見極められるほうがいい。

言葉一つ、歌一つ、花の名前一つ、映画一つ、一つ一つのことから、自分の話をして相手の話になって、またお互いを理解して。
ほんとうにもうそにも一つ一つに耳や目を輝かせる。
人を通じていろんな人を見る人生はとても豊かで、そんな人生さえあればいいなと、いつもそう思う。

自分のことを好きになれる人と一緒にいよう。

今日もがんばったね。
ありがとう。

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