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惚れたもん勝ち。

会う人は選ぶ。食べ物も言葉も視点も、人を評価ばかりしてる人や、見下してくる人とは会わない。視点の高さを意識する。

いつもより少し忙しくて、そんなときは決まって、「誰かに生かされている」って気持ちを失いそうになるのがこわいので、より一層、肩や心に力が入ってしまいます。

いいことでもあり、わたしのよくないクセです。笑

最近、この人嫌だなぁと思うとしっかり距離を置く意識を持つようになりました。

嫌な感じのミーハーな人、いつも他人を調べて優越感な人、ネチネチしてる人、言い訳ばかりな人、お酒に飲まれている人。笑(これは自分が見てて最近すごく嫌だから、自分もしないようになったし家にもお酒を溜めなくなった)

30歳にもなったから、自分からちゃんと幸せに向かって歩きたいですね。
「相手の振り見て我がふりなおせ。」プラス「肩の力を抜くこと」「黙る大切さを心に置くこと」それから変わらず「愛されたいなら愛すること」この3つ。

いろんな愚痴や不安、嫌なことに囲まれて、糸口が見つからなくて、手が動かない、言葉も沸かない、嫌味ばかり言っていたとき

「おもいっきり愛してみな。何倍にもなって返ってくるから。いろんな場所から。絶対」と言われて。

なんかすごく単純なことなんだけど、「ああそうだなぁ、そうだよな」って素直に思えた自分がいました。

思いもよらない方向から、かけた分の愛が返ってくる。恋にかけた愛が仕事で返ってきたり、仕事にかけた愛が恋で返ってきたり。
人生は思い通りにはならないけど、タイミングとご機嫌が全てで、良い意味でも悪い意味でも、思い描いた自分にはなれる。

こんな風に思えるのは30歳の自分が、10.20代の頃から見たらありえないくらい嫌なものがまわりにないし、そうさせてもらえる人達にも出逢えてきたし、幸せになりたいより「もう十分幸せ」と言う気持ちを強く持てているからだなと思ったりもします。

10.20代の頃は本当にしんどくて暗くて不幸だと思って過ごしていた時間もすごく多かった。
むしろそれが原因で、不幸である方が心地良くて、なんか幸せなことが起こると、「これはなんだ?こんなの続くわけがない」と不幸の準備をするようなタイプだったからだと思います。
臆病だったし、何より責任感がありませんでした。

自分も人も幸せにするぞって責任感は、気持ちと行動が一緒になっいて、愛を持って、少し稼いだお金で人を喜ばせるくらいのことができるってことなんですよね。

家に帰ったらお布団があって、好きなご飯も選べたりします。ぼーっと天井のシミを見たり、たまに愚痴吐いて、たまにしにたくなったりしても、そんなことを吐ける人が実はどこかにいて。

「息を吸って吐いてくれているだけでいい」
怠惰の意味ではなくて、そんな愛情がこの世界のどこかにはきっとあって。

そんな小さな小さな期待にひとつずつ応えていけば、小さな小さな幸せが返ってくるかもしれません。

よくわからないかもしれないけど、なんとなく今思ってることです。
最近言葉にしてないし、伝える能力が更に落ちていますが。。

誰かがひとりでもこの言葉で救われるならと思うと自分も救われます。

明日もがんばるよ。
やるかやらないかだと尊敬する方がいつも書いている言葉。(ゲッターズ飯田さん)

やらない言い訳をさがすより、やる意味をさがすことを。

くるしくても逃げたくても、人の目が気になっても。わたししかわからない気持ちと環境に、自分から負けるわけにはいかないもんね。

とにかく人生は惚れたもん勝ち。強い愛に勝るものなし。惚れたもん負けとか言うけど、意地やプライドや見栄のない人は恋も仕事もうまくいってる。

やっかみも、仲良しのフリした不幸話も、はねのけて、自分らしく。

今日もがんばったね。
ありがとう。


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