馴れ合いは悪か? 馴れ合う力もないコミュ障から見たら馴れ合いも一つの「生きる力」に見える……。
※この記事は、何も分からない者が「馴れ合いって何??」と書くだけの話です。解決策も有益な情報も何もありません。
「馴れ合い」や「傷の舐めあい」が良くない、ウザいという話を時々聞く。
初めにこういった言葉を見たのは小説投稿サイトだったと思う。その後、主に仕事に関して向上心のある方も馴れ合いは良くないとおっしゃっているらしいことを知り、馴れ合いとコミュニケーションの違いが分からない私はビクビクしてきた。
馴れ合いについて検索すると、「グルになって悪いことをする」みたいな言葉が出てくる。つまり、解決すべき問題があっても「まぁ良いじゃん」と言ってしまう空気が馴れ合いなのだろう。「お主も悪よのぅ」みたいな。互いにしっかり注意・意見し合える関係なら馴れ合いではないのだろうか?
馴れ合いは「学生時代の友達のノリだ」といったことも書いてある気がするけれど、友達ができたことのない私には「お友達ノリ」とは何かがよく分からない。
ちなみに私は友達ができないけど仕事もできない。馴れ合う人は仕事ができないという意見があったが、「馴れ合えるコミュニケーション能力もない=仕事ができない」という私のようなタイプもいるので、「馴れ合わない=仕事の質が上がる」とも限らないのかもしれない。
私は仕事のとき「緊張感のある関係」を恐れ、分からないことを誰かに聞くこともできなかった。というより何が分からないのかすら分からなかった。うまく喋れず、人の言うことには大抵「はい」としか言えず、さらに「はい」と言ったことも理解できていなかった。ミスをして怒られたときも「はい」と言うが、本質はよく分かっていない。会話というものができない。ただただ人が怖いだけなのだ。常にビクビクしているので気軽に仕事の話を見聞きすることもなく、職場の人を避け続け、怒られることを恐れるばかりで向上心が抜け落ち、仕事中は仕事が早く終わってほしいとばかり考えた。休日も寝てばかりで、「明日も仕事か」と思うと涙が溢れた。仕事が楽しいと思ったことなんか一回もない。まわりの人とも険悪になり、どんどん落ちこぼれた。
そんな私だから思う。
「馴れ合い」も問題かもしれないが、馴れ合う力があるということは、コミュニケーション能力があるということではないだろうか?
馴れ合いは悪か? 処世術であり、それをする人にとってはベストな方法なのではないのか?
まぁ、私ほど頭悪い人なんて少ないだろうから、必要以上にベタベタせず普通に仕事に集中した方が普通は良くなるのだろうけど。
学生時代、まわりの人がギャハハと騒いで先生に叱られる中、私は静かにしていたが、賢くも強くも天才にもならなかった。常に現実逃避してノートにラクガキとかしていたから、時々重要な情報を聞き逃して集合場所や持ち物が分からなくなった。ミスも多く、常に不安で、誰かにすがりたかったけれど頼れる友達がいないから一人で彷徨っていただけである。
私の場合、馴れ合うとか馴れ合わないとか以前に、もっと気にするべき問題があるのだと思うけど、とにかく「馴れ合える人の方がそこそこ幸せに生きていけるんじゃない?」「馴れ合いは人間界への適応であり必要悪じゃない?」という気がする。
以前、私の小説をとある場所に送ったとき、そこの人から「普通、小説の賞とかに送っても、コネがないとなかなか入賞しませんけど……」みたいなことを言われて、文脈は忘れたけどその言葉にだけひどくショックを受けて心に残ったことがある。それ以降「世の中正当な実力で評価されるんじゃないのか!?」とずっとモヤモヤしていたが、よく考えたら繋がりを作る(保つ)というのも努力の一つなのかもしれない。
今、小説投稿サイトやブログで投稿しているが、どこであっても「自分から読みに行かないと他の人から読んでもらえない」部分はある。人の文章を読みに行って初めて人々の考えや雰囲気が分かるところもあるし、一人で突っ走っては良くも悪くも独りよがりになるだろう。よほど独創的な天才であれば、他の人の感性に振り回されるより一人で突っ走った方が良いのかもしれないが、私は天才じゃなかったからもっと馴れ合うべきだった。人生の最初から。
先生の話でも、「友達と助け合って生きましょう」というものがあったし、歌でも「みんなと友達になろう」みたいなものがあった。小中学生の頃の私は「でも友達がいる人って、授業中も友達とギャーギャー騒いで注意されてばっかりじゃん。大人はルールを守れと怒るくせに、なんで友達を作ることを勧めてくるんだろう」とナメたことを考えていた覚えがあるが、結局「みんなで騒いで叱られるような人」の方が、生き残る力を磨けるのであり、大人たちはそれを知っていて必要悪を勧めていたのではないだろうか。
学生時代に叱られる経験を積むことで、大人になったらルールを守りつつ人とのコミュニケーションを大事にできる人間になるかもしれないし、なれなかったとしても人と馴れ合える力さえあれば、ある程度マイペースに生きてゆけるのではないか。たとえ職場内で自立できていなかったとしても、少なくとも社会上では、誰かに金銭的迷惑をかけることも少なく生きていけるはず。そして他の職場に移るとしても、そこにいる人と仲良く楽しくやっていけるのでは。
学校で友達も作らず勉強一筋にするにしても、学力を生かして進路を決めるなら勉強したことに意味があるかもしれないが、私のように頭が悪く、人間界の仕組みも理解できない者にとって「勉強した内容自体」は中途半端すぎてあまり役に立たない。というかほとんど忘れている。私レベルの人にとって、真に学校で学ぶべきなのは、「友達を作り、人間関係を学ぶこと」の方ではないだろうか。
「馴れ合いはダメ」という意見には、真面目な正論と、コミュニケーションが苦手な人の僻みややっかみや好き嫌いが混在している気がする。
協調性と馴れ合いの違いというのも私にとっては不明なことである。割り切ることと意見を持つべきことの違いも分からない。世の中間違っていると思うところが多少あったって、今すぐ自他の矛盾した言動を変えるのは難しいように感じる。
例えば私は「人類は自然に戻るべきだ」「人は無闇に生き物を殺すべきではない」と思う部分があるけれど、今更私が自然に生きる方法も、できるだけ生き物を殺さずに済む方法も分からない。近くの土地は全部誰かのものだろうし、何をしたら違法になるのかもサッパリ分からないので、自由に動いてみようという気になれないのだ。
私が業務中に「屋内に迷い込んだ虫を助ける」ことに時間を割いたりしたら怒られると思う。ものすごく手際良く逃がせるなら、「気になってたんだ。ありがとう」と感謝される可能性も0ではないかもしれないが、大抵、一体何をやっているんだと怒られるだけだろう。ましてや私のようなノロマがモタモタ動くのなら、注意されないはずがない。人間は人間のために最大限効率良く動くべきで、その対価としてお金を受け取るのだから、人間以外のことに業務の時間を使っていてはいけない。人間以外のことに時間を使いたいなら、プライベートな時間を使って、自然保護のボランティアとかをするべきなのだろう。
掲げる理想や意見や夢物語は数あれど、どうすれば良いのか分からないことが混在している。今自分の本音を言っても、極論・綺麗事・机上の空論でしかないなと感じる。それで「まわりがまだこのレベルだから」と合わせているうちに、気づけば自分一人、意識が多数派から遅れていたりするから焦る。
結局、解決策を自分から提案できることなら、たとえ間違っていたとしても解決策を提案してみるべきだし、現時点で解決できないと思うことならまわりに従えば良いのだろう。
話がどんどん逸れていくが、結局私が分からないと思ったのは、「何を言うべきで何を言わないべきなのか?」「何を解決すべきで何を妥協すべきなのか?」という折り合いの付け方かもしれない。
私はいつも自分にとって重要なことばかり考えているつもりで、言うべきかどうか分からないことや自信がないことに対してはそこまで強く意見していないつもりだし、個人の価値観や文化の違いにどうこう言ってもしょうがないと思っている。自分自身の方向性が定まっていないことや、100パーセントの本音が言えないことに関してもあまり発言していないつもりだ。けれど、端から見ると何かが根本的にズレているのかもしれない。
今回の記事の大まかな論点は多分、「馴れ合いは馴れ合わないことよりも悪いのか?」ということ。
でもよく考えたら、何が良くて何が良くないのかなんて、人類には永遠に分からないのかもしれない。
威圧感を与える関係や、人と人との心の距離が保たれること、厳しい上下関係があることが良いとも限らない。
何を「良い」「悪い」とするのかも人それぞれだろうし、私が「仲良し」と「馴れ合い」を見分けられないところもあるのだろうけど。「こうしていればOK」なんて答えはどこにもないんじゃないだろうか。
戦争時代は馴れ合っておらず厳しかっただろうが、国民全員が一丸となって、命懸けの集団になる時代は良かったのだろうか。「戦争はしたくない」「死にたくない」ということすら、今だから言えることであって、以前は言えなかった。
時代の空気か集団心理か何かによって、「戦争はしたくない」「死にたくない」ですら、甘えだの悪だの言われることがあるのだろう。甘えだの悪だの言われたら、「やるしかない」状況に追い込まれるかもしれない。何かがおかしいと思っても、何も言えないのかもしれない。今の常識も感覚も、今「正しい」と思える理想も、これから目指そうとする場所も、未来から見れば古くて的外れなのだろう。
人と人が馴れ合っても隠し事をするかもしれないが、自分の気持ちをあれこれ言えない関係の中にも、隠し事や不透明さ、「気づいていない大きな問題」はありそうだ。コミュニケーションが好きであるが故に、つい仲間に甘くなってしまうこともあるかもしれないけど、コミュニケーションという努力を拒んだ者が公平を望むのもどうなんだろう。たくさん喋って仲良くなった方の肩を持ちたいと思うのは、人として当然なんじゃないか。
なんてのも全部、コミュニケーション力0・友達0人の私が、根拠もない偏った妄想と思い込みで発信しているだけの戯れ言である。所詮、真の人間関係を経験していない人間が、「間違いや不公平があったとしても、人と心を通い合わせることを試みた人間」に敵うはずがないのである。
世の中不公平なのが悪だというのなら、肉食獣が獲物を殺して我が子を生み育てる、そのシステムからして悪は始まっているのである。命の線引きのため、「仲間」を作り守ろうとするのは、動物として当然の心の流れではないか。
これからも時代によって、価値観や善悪や空気がすべて変わってゆくのだろう。なぜそうなったのかサッパリ分からなくても。
今ある空気がたった一時のものならば、それに流されて思うように思えないのは悲しいことだ。自分の好きな空気や感覚が悪だとされたとしても、こっそり大事にするしかない。
どうせ、遠い未来から見たら、全部古いのだ。人はきっと生まれ変わるし、上と下もひっくり返る。先輩は後輩に、親は子に。肩書きも決められた役割も名前も、命を縛り付けるすべてのものはなくなっていく。その中で今一時の関係が何だというのか。
人間同士で「馴れ合わず公平に」と言ったところで、既に人間同士で馴れ合って、他の生物に対して公平な扱いをしていないじゃないか。見た目で虫を嫌い、日々豚にお世話になっておきながら豚を悪口の代名詞にする。人類の概念自体がすべて、馴れ合いの上に成り立っているではないか。
しかし成長途中であることは悪なのか? 成長途中の人は全員罪悪感を背負い、改善に必死になり、幸せを感じるべきではないのか?
……良いんじゃないだろうか。マイペースに進み、のんびりと幸せを感じても。と、言うだけ言っておく。
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