見出し画像

次々と夢は変わる。でも、「人の役に立ちたい!」という思いは変わらない

LITALICOの佐々木真美です。15本目となるnoteのテーマは、私の「夢」についてです。

脳性麻痺当事者である私は、子どもの頃から今に至るまで、看護士さんや作業療法士さんなど、さまざまな職業の方にサポートしてもらいながら暮らしてきました。そうした人たちの姿を見て、私自身も「人の役に立ちたい!」という夢を描くようになったのです。この記事では、過去から現在に至るまでの私の夢の変遷と、その背景にある思いについて書きたいと思います。

「私も、看護士さんになりたい!」医療療育センターでケアを受けた原体験

これまでの記事に書いているように、私は4歳から17歳まで医療療育センター(以下、センター)に入院しながら暮らしていました。

画像3

入院生活が長かった私は、退院していく友達を見送ることも多かったです。毎回見送る寂しさがありましたが、治療やリハビリを一緒に乗り越えてきた友達が退院していく姿を見る嬉しさもありました。彼らの退院までの日々を支えていたのは、センターで働く看護士さんです。

センターで出会った看護士さん方は優しく、母親のいない私にとって、母親のような存在でした。特に、途中から担当になったとある看護士さんは、とても話を親身に聞いてくれる方で、身体だけでなく、気持ちまで楽にしてくれました。

こうした経験から、「治療が出来て、患者さんの心のケアも出来るナースになりたい!」と思うようになっていきました。これが私の最初の「夢」です。

けれども、成長するにつれて、どんどん自分の身体に詳しくなり、障害のある自分が生活するには「介護」を受ける必要があることに気が付きました。そして、悔しかったけれども、看護士さんになる夢を諦めることにしました。

身体が不自由な自分にも出来る「心のケア」の方法を探して。作詞家を目指した中高時代

看護士になることは諦めましたが、当時の担当の看護士さんからいただいたアドバイスから「心のケアなら、身体の不自由な自分にも出来るのではないかだろうか?」と考えました。「誰かの心のケアをしたい」「音楽を聴くことが好き」という2つの思いから、作詞家になることを夢見るようになりました。これが2つめの「夢」です。

中3だった当時、私はヘッドポインター(※1 以下、ポインター)の先に鉛筆やマジックなどをガムテープなどで固定してもらい、文字や絵をかいていました。そして担任の先生が作ってくださった分厚い単語帳に、詩をどんどん書き留めていきました。

自分が中学部3年生のときの文集にも「将来の夢は、作詞家になること」と書いたことを覚えています。しかし、そこでネックになったのは記憶力の不安です。普段の学校での授業で、日によって答えが当たる日があれば間違えてしまう日もありました。当時は、まだ自分のPCを持っていなかったこともあり、作詞した詩を数時間後、または、数日経ったときに同じことが書けるだろうか…といったことを考えて不安になってしまい、作詞家になる夢を断念しました。断念するまでに時間がかかり、気が付いたときには既に高校2年生。特別支援学校卒業後の進路を決める時期となっていました。

※1 ヘッドポインターとは
工事現場などで使われているヘルメットに棒を付けた帽子です。私の口と手の代わりをしてくれる道具です。

画像2



事故にあった友達との思い出が、「福祉」の世界へ導いてくれた

「誰かの心のケアがしたい!」と思っても、当時は具体的にどんな仕事があるのかをほとんど知りませんでした。看護士、作詞家を断念した私に、どんな仕事ができるのか、何を夢として描いていけばいいのか…進路について考えていたときにふと、自分が小学6年生だった頃の出来事を思い出しました。

センターで仲間たちがテレビゲームをしていたときのことです。 みんながワイワイと楽しくゲームをしているところに、男の子が1人でポツンと過ごしていました。その男の子は、ご家族や看護士さんからの話だと、「事故にあう前までは、やんちゃでザリガニをとって遊んでいた」ということでした。それから、通っていた学校のサッカー部に入っていて、将来サッカー選手になることを期待されていた」といったことも教えてもらいました。

その男の子が活発だった頃のことを知った私は、「ゲームを眺めているだけではつまらないだろうな」と思い、その子の左手の親指を自分が被っていたヘッドポインターで動かし、ゲーム機のボタンの上に載せて一緒にボタンを押しました。事故や病気で身体が不自由になっても、周囲の人がサポートすることで出来ることは増えていく。彼と一緒に遊ぶなかで、「福祉に関わる仕事がしたい!」という気持ちを抱くようになりました。

LITALICOで働いている現在も、ポインターを使い、彼の手の指を動かして一緒にゲームをした思い出が働く原動力となっています。そして、その思い出が私を福祉に関わる道へ案内してくれたと思っています。なので、彼には心から感謝しています!

画像2


「自分は弱い。仕事を辞めたい!」と何度も思った。支えてくれたのは、仲間たちの言葉

高校卒業間際のこと、担任からとある企業を紹介されます。それが、いま働いているLITALICOです。はじめは業務委託としてデータ入力の仕事を経験、心身の調子を崩してしばらく働けない時期を過ごしたのち、2015年5月からアルバイト契約となり、施設にいながらPCでの遠隔操作を活用し、現在も働いています(卒業して働きだしてから現在に至るまでの詳しい出来事は以下のnoteに記しています)。

 自分が目指していた福祉の仕事をしているLITALICOの人たちと出会い、自ら、「一緒に働きたい」旨を伝えた私でしたが、実際に働いてみると、うまくいかないこともたくさんありました。

他者からの意見を受け入れることに時間がかかったり、いつ上司が変わるのかといった不安に押しつぶれそうになったり…。一時期は口癖のように「辞めたいです」と何度も言っていました。「辞めたい」と思う度、「なんで自分は弱いのだろう?」と自分のことを責めていました。

「辞めたい」と言い、自分のことを「弱い!弱い!」と嘆いていた私に、今は同僚で4年間上司としてお世話になった金井敦司さんと、仕事の中でやり取りをしている発達ナビのユーザーさんから「LITALICOには、真美さんが必要です!」という励ましがありました。それから、自分と同じ年齢で、今お世話になっている上司の鈴木悠平さんには、「真美さんと一緒に働きたい!」といった嬉しい言葉を頂きました。私が働いていくことに迷ったとき支えてくれた2人の上司や、お客さんには感謝の気持ちでいっぱいです!


働くなかで見つけた新たな夢。自分だからこそ出来る仕事で、誰かを支えたい

周囲の支えと自分の頑張りがあり、6年目になった今も働いています。そして、働いていくうちに、どんどん自分がしたいことが見つかり、新たな夢を描くようになりました。

自分が小さい頃、治療や訓練を受けながら学校で勉強をする友達と過ごしていたこともあり、会社ではなく自宅・施設・病院にいても仕事ができる会社を増やしたいと思いました。それからその反対に、医療的ケアが必要な方も会社に来て働ける社会を創りたいということも、夢見るようになりました。

また、「働きたい!」と思っているのにもかかわらず、障害や病気を理由に働くことを諦めている人に「実は違うのですよ!設備や環境が整っていたら、どんな人だって働けるんですよ!」と言える支援者になりたい!とも思うようになりました。

画像4

もちろん、自分がしたいと思っていたことは、既に誰かの仕事であったり、徐々に世の中も変化して実現が近づいている面もあります。その仕事を一緒に進めていくことも出来ると思いますが、改めて、自分に出来て、自分だから出来ることを考えました。

そして、過去に命を絶とうとしてしまったり、何回も「辞めたい!」と言ったりしてきた自分だからこそ、出来る仕事があるのではないか、と思うようになりました。私が苦しかった経験を活かし、たとえ「死にたい」と言う人がいたとしても守ってあげるのではなく、その人の心に寄り添い、同じスピードで歩ける支援者になりたい。今はそんな夢を描いています。具体的にそれをどんな仕事で実現するのかはまだ決まっていませんが、これからもさまざまな仕事に挑戦して、夢に近づいていきたいと思っています。

また、私が働くことを「辞めたい」と何度も言ってたとき、支えとなってくれたLITALICOの仲間や、仕事先で出会ったお客さんに、自分がイキイキと働いている姿を見せ、恩返しがしたいです!

夢は次々と変わる一方で、根底にある気持ちは変わらない。それが嬉しい!

看護士さんになりたかった小学6年生。そして、作詞家になることを夢見た中学3年生。2つの夢を断念した私でしたが、生きることがしんどかったり、働いていくことに不安があったりする人の心に寄り添う仕事がしたいという現在の夢に至るまで、「人の役に立ちたい!」という根底の気持ちは変わっていません。今後どのような仕事を頂くのかは分かりませんが、どのような仕事を頂いても、この気持ちを大切にしていきたいです!

そして、「役に立ちたい!」といったことを思える自分を嬉しく感じ、これからも働いていきたいです!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?