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日記5月3日 罪を喰らう。ギータを読む。


今朝の体重は朝食後で65.7kg、体脂肪率11.7%と出た。この二日は雨模様で散歩が難しく、運動が不足している。昨日の朝食前だが体重は65.1kgであったので、微増という感じだろうか。

出勤すると、1日1万歩はなんとか狙える。簡単ではないが、最近は家から一駅ではなく家から3駅前で降りてあるけば9000歩くらいにはなる。

3駅というと大変遠いようだが、私が利用している近鉄鈍行の駅の間隔は狭い。JRだと一駅のところが5駅くらいある。

毎日歩数を確認するのだが、スマホを持つようになって楽になった。万歩計が要らないからだ。ポケットに入れていたが、微妙にかさばっていたものだ。もはや懐かしい。

そして歩数を確認することで、その日の活動内容を思い出すことができる。歩けなかった日はこんなことでバタバタした。天気が悪かった。車で買い物に行った、などなど。

昨日一昨日の歩行数は4135歩と2984歩。特に昨日は終日雨で、車で買いものにいった位である。会社に行けば雨でも歩数はある程度稼げる。

バガヴァッド・ギーターを読んでいる。

犠牲を以て神々を養え。さらば神々も亦汝を養はん。神々を養って汝は至上善を収穫せん。
犠牲によつて養はるる神々は、汝が求むる喜びを汝に授けん。神々の恵みを受けて、これを神々に返さざる者は、まことにこれ盗賊なりけり。
供え物の残りを食する正しき者は、凡ての罪を許さる。されど己のためにのみ食を備ゆる非敬虔者はまことに罪を喰らうなり。
至高者の歌 バガヴァド・ギーター  三浦関造訳 P.25 竜王文庫


池田晶子さんにソクラテスの言として(その著書で)教えて頂き印象が不快のは、池田ソクラテスが

僕は生きるために食べている。食べるために生きていない。

という箇所だ。

あまりそういうことを考えることなく、ただ日々徒食に暮れていたわけだが(無為といいたいがまあおいておいて)改めてそういわれるとそこにある覚悟があることに気づく。

日々の生活を丁寧に意識的に。

神、というと信じるか信じないか、という2者択一を迫られるように思うのだが、一神教の神と神々、という時の神とはすこしニュアンスがかわるだろう。

ここ日本では生活の中で、八百万の神、神羅万象、諸仏や観音に囲まれているような肌感覚があるように思う。一神教、もあるがそのなかのひとつとしての「一神教」かもしれない。

そのような神は、場合によっては「現世利益を願う神」である場合もあるだろう。個人的には現世利益を求め与える、という関係はなんだか対価を求めているようで、ちょっとなあ、と戸惑う面があるのだが、まあ、自分とは違う上位の存在、という感覚があるという点は感じる。

そういう現世利益、とはちょっと違う「恵み」、もっというと「存在していること」の理由としての「神々という作用。および、これから生命として「よき方向に生きたいと願い動くこと」それ自体への感謝、という考え方があるだろう。

ここはすこしぼんやりするし、余りここ日本ではメジャーな感覚ではないかもしれないが、例えばソクラテスやギーターの言葉からは感じることができる。

よく生きる、

ということばに繋がる、あるいは同意。

そんな感じだろうか。

(まずこの「生」の理由としての「神」あるいは「神々」に感謝、という感じでしょうか・・)





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