1月16日(日)#日記 サムマネーがないと無理。
非正規労働者が、自己肯定感が低く、かつ新自由主義の成功者を理想とすること、そして自身の福祉を求めず、為政者を糾弾しないこと。そして一番目の敵にするのは、自らが「そうなっていたかもしれない」ちょっと上(と自身が感じる)人々である、ということが言われている(雨宮処凛さんなど)。
これはどうしてなのだろうか。
自分ならどうか、ということで考えてみたい。
自分自身は、こうしてなんとか日々暮らしてはいるものの、就職のときは不安しかなかった。
小学校から高校まで、「自分はこれから放り込まれる大人社会、という場所では、たぶんうまくやれないだろう」、そんな予感に苛まれていた。
いわゆる「運動が出来」「人とのコミュニケーションがフランクで強気」であり、「男女交際なども得意分野」。
こういう「社会でうまくやれそうな人々」を見るたびに、なんて自分の基本スペックはそこからかけ離れているのだろう、と思っていた。
これはもう、日々感じていた。
この感触は、自身が生き延びるために全力で自らの感覚触覚で本当のところ、と思われる、自らの「生き残り戦略」のなかで憂慮すべき「遺憾ながら不都合であるところの真実」である、と思えたものだ。
そもそも小学校卒業の時にそれを感じていた。
これはやばい、と。
生き延びるためには、自らのこころの欲求に抗わねばならないようだ。
そう思っていた。嫌なこともしなければならない、と。
・まずは嫌いな勉強をしなければならない。金を儲けたい、ではない。必要最小限の食い扶持をなんとか稼ぐために。
いやいや勉強した。が不安から自分なりに精いっぱいやった。もちろん嫌々の勉強だ。嫌いな数学をやるのは拷問のようだった。だが一方で、こんなに嫌いなことも頑張っちゃっている、ということは逆に安心にもつながった可能性がある。
そして勉強しながら、「本当は学問とは、食い扶持を稼ぐため、というような目的ではなく、純粋に学ぶべきもののはずなのになあ・・」とも思っていた。だがその声を聴きすぎると、嫌なことは学べない。あるいは得意な学問でとことんいけそう(大学教授レベル)であればそれはそれでいい。だがとてもそんな「ギフテッド」を持ち合わせてはいないようだった。
・人とコミュニケートしなければならない。特に「苦手」と思う人々と。
やけくそでコミュニケートした。その時「逃げないでぶつかろう」と思っていた。そのことはすこしだけ、誇らしい。そして全身でぶつかると、道は開ける、とも学んだ。
・運動が苦手ではあるが、文系的ではない、身体的な自らの強みを伸ばさなければならない。
身体を鍛えた。それほど強くなったわけではないが、弱くはなかった。上段の「苦手な人々とのコミュニケート」でも、一応自身にとってはできる限り鍛えている、という思いは後押ししてくれた。
運動神経はゼロだが、パワーリストやパワーアンクルを日々付けている気持ち悪いやつ、というポジションだ。不気味さはたぶん、舐められ、に対抗できるかもしれない。できないかもしれないが、そこに賭けるしかない。
・なんとか、どこかに、潜り込まねばならない(就職)。
やばかった。。なんとかかんとか滑り込んだ。
就職後もいろいろな葛藤があった。母親はあるとき「アンタ、無理してるから」と言ってくれた。その一言で、わかってくれている、と思った。
こんな私は、たぶん非正規労働で苦労している人々と、たぶん心の中はニアリーイコールであるだろう。そのような方々がどう思うかはわからないのだが、自身ではそう思う。
で、自分がその立場になると、やはりそうなる、という感じがする。
一発逆転がしたい。と思うはずだ。宝くじを買う金(何とか生活できる金とは別に)があれば、買うだろう。
政治をなんとかしろ、と思うかもしれないが、「誰かと連携して」「政治的な要求を正しいお作法で」やるのは嫌だろう。多分人とのコミュニケーションに疲れているだろうから。
多分、連携や、コミュニケーションの場がないことが原因だ。でもいったい、誰がそんな場をつくるのか??暖かい場所で、そんな場を作ってらっしゃる例はあると思う。そこに、辿り着く必要がある。
そして仮にあったとしても、そんななかに飛び込む元気がもうないかもしれない。時間もない。たぶん電車賃もない。金があれば、もやしと即席めんを買うはずだ。
なので、もし巻き込まれで、なんとなく、NO負荷で、「連携」のようなところにいることができるのなら、政治や、制度がけしからん、という気もちになるのかもしれない。それは「目の前の食事」があることが前提だから。
チャップリンは「愛と勇気とサムマネー」(違ってたらすみません)が生きていく上で必要だといった。最後の「サムマネー」とは、なんとか将来も生きていけそうだ、という予感に繋がるだけの「実入り」のことだろう。
ここがむつかしいのだ。
これさえあれば、まずは腹を満たし、そのあとで初めて「為政者」への「異議申し立て」が可能なのではないか。他人とは自身の食い扶持を奪うかもしれない敵である、と本能的に感じなくともよいのだから。
そしてそれがなければ、無理である。
そんな風に、思っている。
そして、最後にのこった矜持で、張っている虚勢こそが、「少なくとも人に頼らず(人の所為にせず)生き延びている」という感覚だろう。
それはいままでの人生を、自分なりに肯定することである。
たとえ他人から見て、失敗続きに見えようとも。
(最後にのこった矜持の所為、というのが、現状の私の感覚です)
佐藤:この前、非正規雇用労働者などの支援活動をしている作家の雨宮処凛さんと対談したのですが、支援を受ける人たちに共通するのが、お話しのように自己肯定感が極めて低いことだとおっしゃっていました。一方で、理想とするのは、実業家の前澤友作さんや堀江貴文さんだったりするんですね。やっぱり、新自由主義的なものはウェルカム。なぜ自分を苦しめているものを是認してしまうのか、クエスチョンマークしかないと彼女は言っていました。
齋藤:弱者男性の怨嗟の向かう先は、支配層ではなく、自分のちょっと上の中流ぐらいの層だというのも、よく言われることなんですね。自分たちより弱者に対しては、もっと容赦なかったりする。結果的に、弱者切り捨てに賛成してしまうという、自分の首を絞めるようなことになっているのです。
佐藤:さらにこうした弱者男性たちは、福祉の話になると、「でも財源がないから」などと言うのだそうです。自分自身は弱者なのに、まるで為政者側の立場にいるかのような発言をする。そのことにも驚いていました。
齋藤:それは、本当におかしな話なのです。例えば、私は障害者年金の申請書を書く時に、この人に年金を出したら国の財政が破綻するとかしないとかいうことは、一切考えません。自分の患者さんが楽になってくれれば、それでいいわけです。医療行政のことは、政治家が決めてくれ、と。
お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。