見出し画像

あのときの「ノート」

おはようございます(^O^)/。

高知のまめさんでーす♪

今日も、日本を変える為に高知県仁淀川町の別荘で目が覚めましたー(^0^)/

『まめまめーる』は、心のサプリメント。。。(^_-)-☆

今日も、畑の草たちと戯れまーすヾ(〃^∇^)ノわぁい♪

今日も、絶好調で楽しそうに笑顔で過ごしましょう。

今日はいい日だ( ^^)Y☆Y(^^ )。
-------
臼木巍さん(74)会社経営愛知県武豊町のブログから紹介します。

みんなが貧しかった少年時代

歳をとると涙腺が弱くなるもので、久しぶりに心にグサッとくる文章を読んだ。
産経新聞の朝刊の一面に「朝晴れエッセー」という読者からの投稿が載っている。
普段は読まない記事であったが、女房から貧しい少年と先生のいい話が載っていたよ・・・と教えられ、さっそく読んでみた。
学習ノートも買えない貧しさから新聞専売所に下宿しながら生活費を稼ぎ、広告の裏紙をノート代わりに使っていたのを先生が知り、少年を励ました話だ。
 私の小学校の時の話だが、貧しい開拓農家の子供たちは弁当に白いご飯ではなく、ジャガイモを詰め梅干しとタクアンをおかずにしていた。昼食時にはクラスの子供たちに見えないように手で隠しながら食べていたのを思い出す。
 弁当を持っていけない子供はいつも昼食時間になったら校庭に出て鉄棒やシーソーで時間をつぶしていた。
そんな子供たちにクラス担任は自分の弁当を食べさせたり、奥さんに弁当を二個準備させそっと子供たちに食べさせていたのを思い出す。
みんな知らないふりをしていたが、みんなが知っていた。
そんな少年時代を思い出す一文であったので紹介する。

◆朝晴れエッセー あのときの「ノー卜」 2019.5.11

 長男の私は、家への仕送りが必要だった。
中学2年のときには、すでに新聞専売所に下宿していた。
給料を送金するときの、母の安堵(あんど)する顔を思い浮かべることが、私の幸せだった。
 生活のすべてに困窮していた。
たった一つだけ満たされていたのは「紙」だった。
新聞店には広告紙配達の依頼が絶え間なくある。
これがうれしかった。
広告紙裏面に白いものがあれば店主に頼み、いつも50枚ほどは分けてもらった。
綴(と)じてノートの代用品とし、全部の学科が広告紙の裏だった。
紙質も鉛筆の滑りも悪く、でも贅沢(ぜいたく)を言うことはなかった。
 2年生の7月、定期試験が終わってすぐに、体育の先生から全員に「ノート」の提出を求められた。
広告紙の裏をノート代わりにしている私は思わず体が震えた。
誰にも知られたくない貧しさの秘密だった。
提出は恥のさらし者になる。
何の名案もない。
覚悟し職員室にそのノートを持参して、先生に一切の事情を打ち明けた。
無言で聞いてくれた。
悔しさと異常な羞恥心(しゅうちしん)で涙したあの日。
 後日、ノートの返却があった。
私の「ノート」は新品のバインダーに綴じられて、3冊の真新しいノートが入れてあった。
「整然としています」と採点記載があり、最後に「絶対に負けるな!」と力強い大きな文字が記されていた。
その用紙は今も手元にある。
3冊のノートはあまりにも貴重で使用できず、一緒に人生を歩んできた。
大切な宝物となった。
生涯忘れられぬ先生との出会いがあった。
  臼木巍(74)会社経営愛知県武豊町
http://comorebinosato.seesaa.net/article/465714975.html
-------
それでは、今日の言葉です。

若い時の苦労は買ってでもしろ!
私の父親が何かあるたびに言ってたなぁ。。。
でも、その理由が今はよく分かるなぁ!
-------
まめさんの日々の活動はFacebook「大原 栄和」、またはInstagram「masakazu.ohara」からご覧ください。

検索しても見つからない場合は、私のメールアドレスまで連絡ちょーだいね。

mamejy◯ezweb.ne.jp
◯を@に変えて送信してください。

まずは、メッセンジャーに「まめまめーる見てます」とメッセージください。

「まめまめーる」の受信はこちらをクリックすると登録できます。
もちろん、無料です。

こちら
↓↓↓
http://www.mag2.com/m/0001674933.html

#臼木巍
#愛知県武豊町
#みんなが貧しかった少年時代
#朝晴れエッセー
#あのときの 「ノー卜」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?