サマリア五書の特徴

The Other Torah」という、イスラエル系のメディアの記事から、かいつまんで、ポイントとなるところを紹介します。
(サイトのトップ画像は仮小屋の祭りを祝うサマリア人ですが、かなり神々しいです。)

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マソラ本文とサマリア五書には、約6000箇所の相違がありますが、そのうち半分は大きな違いではありません。サマリア五書の記録は、聖書の各場面を、よりスムーズに読んでいくための助けになる場合があります。

創世記4章8節のカインによるアベルの殺害の部分

マソラ本文では「カインはアベルに言い、そして野にいたとき、カインはアベルを殺した」となっていますが、サマリア五書では、カインがアベルに対して言った言葉「さあ、野に行こう」という部分が書かれています。

これは新世界訳も翻訳の参考にしています。以下、ものみの塔による新世界訳の脚注より…「サマ五,七十訳,古ラ訳,シリ訳はこの角かっこ内の言葉を挿入している; ウル訳,「さあ外に行こう」; マソ本は省いている; 幾つかの写本と印刷版はここに空欄を設けている。」
(ちょっと話はそれますけど、ものみの塔はカトリック(彼らいわくバビロン)のウルガタ訳も参考にしているんですよね。)

出エジプト記7章~11章のモーセ&アロンとファラオの会話

マソラにはすっぽりない、彼らの会話の部分がサマリア五書には描かれています。
(すみません。内容はまだ確認していないです!)

出エジプト記12章40節の430年の期間について

マソラでは「エジプトにいた期間は430年」としているけれど、サマリア五書では「カナン、そしてエジプトにいた期間は430年」となっています。

この部分は、ガラテア3章17節でパウロが記している「さらに,わたしはこの点を述べます。神によって以前に有効にされていた契約(アブラハム契約)について言えば,四百三十年後に存在するようになった律法は,これを無効にしてその約束を廃棄するのではありません。」と記していることとも一致しています。

以下、新世界訳の脚注より…「七十訳,「しかし,イスラエルの子ら[七十訳アレ写は「およびその父たち」を付け加えている]がエジプトの地とカナンの地に住んだその居住[の期間]は四百三十年[であった]」; サマ五,「カナンの地とエジプトの地に」。同じくヨセフスも「ユダヤ古代誌」,第2巻,15章,2節でこう記している。「彼らはクサンティクスの月[マケドニアの月名で,ヨセフスはニサンの月に相当するとしている]の,月齢で数えて第15日にエジプトを去った。それは,我々の父祖アブラハムがカナンに来てから430年後であった」。(ローブ古典文庫,H・サッカレー訳,1967年,305ページ)イスラエルの子らは第1の月の15日にエジプトの地を出た。出 12:37; 民 33:3,5参照。サマ五,七十訳,およびヨセフスは,430年の期間が,アブラハムがカナンの地に入った時から,イスラエル人がエジプトを出た時までであることを示している。」

サマリア五書は、多くの写本や記録とも合致しているんですね。

出エジプト記4章24節~26節モーセの息子への割礼について

この部分、記事だけだとちょっと理解が難しかったのですが、多分、こういうことだと思います。間違っていたらごめん…。

24節で、神はモーセの息子の割礼をしきりに求めますが、ユダヤ人の学者たちは、まさかモーセが息子に割礼をしていないなどと考えられないようです。しかし、サマリア五書でこの部分を読むならば、答えは明快となります。マソラではモーセの息子がチッポラによって割礼された後、神(の御使い)は「彼を離れた」とされていますが、サマリア五書では「彼女を離れた」となっています。つまり、彼女、チッポラに問題があったようなのです。彼女がうなじを固くなにせず、自分の伝統(彼女はミディアンの異教徒であった)を捨て、息子に割礼をしたことは、のちの申命記10章16節にある「心の割礼」を彼女が受けたのだということを理解できます。

申命記にある「山の祭壇」の指示

これは、聖書を理解しやすくする点とは違う部分。サマリア五書にある十戒の後ろの付け加えとされる部分について。サマリア五書では、マソラとは違い、十戒のあとに「ゲリジム山に祭壇を作れ」という指示が書かれている。しかし、学者さんたちの中には、マソラにもこれにあたる部分が「あった」のではと考える人がいる。マソラでは申命記の27章4節でエバル山に祭壇を立てるようにという指示があるけれども、祭壇について最初のステップ(十戒のあとの指示)がないのに違和感があることが理由だそうです。

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以上です!サマリア五書を知ると、聖書を考察するのがもっと楽しくなりそそうです。(´・ω・`)