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goraphobia@隅田公園 by. token/すみゆめ レポート


コミュ障なアートたちは、公共空間を、恐れ、挑む。

動物が恐れを感じた時の本能的な反応は、戦うか、逃げるか、だという。
だとすれば、Agoraphobia@隅田公園 はどちらを選んだのだろうか。

区民の憩いの場で、パフォーマンス的なアートが
同時多発的に1日がかりで展開されるゲリラ戦。
あるいは、自由への失踪。もしくは、自由からの逃走。

その成果への思索をレビューする。

自由への失踪/フロム は、
現代の人間は独立的、自律的になったようでいて、
その孤独と不安をさらに深めることになったという。
そして、その克服方法は、自発的に社会参加して
社会を幸福のために従属させるすることのみだ。と。

自由からの逃走/Lenny Kravitz は、
何で殺し合い、泣き続けるのかわからないけれども
共に踊り、愛し合いたい。
俺は救われるまで行動し続ける。
オマエはどうするんだ?と挑発する。

今回、Agoraphobia@隅田公園 にボランティア/演者として参加させていただいた。

「Agoraphobia/広場恐怖」とは、病理のひとつ。
・病理  =正常とされるモノと異なる部分をとりあげ、差異によって比較分析/診断をする方法論。
・アゴラ =広場、公共空間。
・フォビア=嫌悪、恐怖症。

つまり、
確信犯的な善の作為に、引け目、恐怖心、劣等感、嫌悪を感じ、
診断名として「パニック障害」や「広場恐怖」がおこり、
動悸、発汗、ふるえ、めまい、胸痛、息苦しさ、死の恐怖などを感じる恐怖症だ。

タイトルからしてなんだか平和ではない。

広場、公園などの空間のありようは、
お役所が、あるいは世間が夢想するような公的な場の理想だの指標だの規律だのがあって、クリーンかつ健全な場であるはずなのに、実際はそうではない。年々禁止事項は増えるし、いまや古き良き球技全般から、反対に最先端のドローンまでがご法度らしい。

そういった制約が増える一方で、公共の現実は、なし崩し的に、理想とはかけ離れて、制御できない周縁の物事が混在して、誰か達の思い通りにはなっていないようだ。

これら「諸問題の集積こそがアゴラであって、それ故、恐ろしい」と明らかにしたのが、台風明けの穏やかな日曜に開催された「Agoraphobia」だった。

健全であるべき広場が見方によっては、病のよりしろのようになってしまうのには今なりの、しかるべき理由と構造があるように思う。

・誰が、何で定義したかわからんような、現実に即さない公共空間での画一的な規範。
・異なる物事を、嫌悪する/しないといった、判断軸、意識や価値観の差と不寛容。
・構造に没頭し、意識的になりすぎた「自粛警察」のような思考停止の独善。


本人の意志とは関係なく、構造的な問題によって
前述のような感情を抱いてしまわざる負えない状態こそも、こそが、
加害的な病理としてとらえられる見方があってもいいように思う。

広場とは何だろうか?
アレやソレをしてはいけない。みんなに迷惑をかけずに。社会的なふるまいを強いられて。その世界観にそぐわない人間は、対話なしに、無視すべきか。

当日の観客の批判的な反応で印象的だったのは、
「変な人がいるから、まじまじと見ちゃいけません」。と母が子に諭す言葉だったり、
「なんだか難しいことをやっているようだけれども、おっさんにはよくわからん」。という素直な感想だったり、
「いい大人が、意味ないことを真剣にやってバカみたい」という受験期の少年の鋭い目線だったりする。

そこには2つの暴力性が横たわった。
作家の思惑と、鑑賞者の思惑。
互いが、ぶつかり、閉じこもり、帰結してしまう。という暴力。

それらは、広場という開放的な空間で巡り合うことで、少しでも解きほどかれただろうか。

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「鳥は卵の中からぬけ出ようと戦う。 卵は世界だ。 生まれようと欲するものは、 一つの世界を破壊しなければならない」。 ―デミアン/ヘルマン・ヘッセ― の一節が強く、思い起こされた。





作家ごとの紹介

・関 真奈美

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17字1組のひらがなである「于多-和歌」のエッセンスを、
1文字毎に物理的なブロックという「モノ」に還元し、
それらを公園の中で周遊させ、思索を経て整うさまを可視化した。
フラットになった一文字は、定刻に人の手によって広場を回遊し、
風景と周辺をまきこみ、やがて文として整う予兆をみせるが、完全には整わない。

日常の美しさと憂いを称え、普遍的に永く在るものをうたいあげる「和歌」の世界観と、装飾されない自然な今様を交差させることで
目の前に立ち現れる情景への注意を促す。
普遍的な情感をつなぎとめる「本歌取り」の作法によって
環境をとりこみながら、いまここに残したいような「うた」を模索する試みだった。

それは、あたかも、
ツイッターのつぶやきが拡散し、不特定多数の検閲を経て収束していくようであり、
パケット通信を物質化し、可視化したようでもあり、
哲学者カントが、毎日定刻に同じところを散歩したなぞらえのようでもあった。

和歌について言及すれば、本居宣長曰く、
「うた(于多)は、感動が思わず現れる(あはれ)ことで、自ずと、あや(和歌)として整う」とした。

そのこころを、この作品へ参照することに確信が持てないでいるが、

目の当たりにした情景はk
そこにある十七文字から自分たちの名前を掬い上げて記念撮影をしていたカップル。

和歌的フォーマットを踏み台に、それをぶち抜くふるまいの自由さと、映えさせることで整わせる力技に、新しい整い方をみた。
エモさが形式を踏襲することで、現代らしい作品の在り方があぶり出されるように見えた体験だ。

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それに触発されてか、
スタッフ間の舞台裏での雑談、平成ドラマ談義で盛り上がった時にあげられた、「NANA」の「アンタもナナっていうんだ、よろしくね」というセリフと、ディレクターである聡史さんと、私、智のファーストネームの、同音が
和音の様にシンクロして、おかしみがあったのも印象深い。



・光岡 幸一

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制約にまみれた(様にみえる)広場の中心で、
不器用なビニールテープを貼った文字をもって「てをふってみていいよ」というメッセージを垂れ流す。
おおげさともいえそうな6メートル級のクレーン車のうえから
懸垂幕とともに、広場の意義を、その自由を、
先陣を切って、その行動で、文字通り旗を掲げた。
その許しは、遠い10m先にも届いたようで、
音としての言葉が届かないながらも、手を振りあう作家と子供のやり取りが印象に残っている。


・core of bells

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は、言葉にならない言葉を奏でた。
電子和琴や、最低限のドラムセット、その他、遊具と楽器と音響装置のあわいを操って、
10名弱が寄り集まって円陣を組み、お互いの挙動を頼りに手探る演奏。
内へとつのるエネルギーが、だらだらと広場へとあふれ出てしまう。
そのコミュ障ぶりを公共にひけらかすような有様は見ず知らずの他人や広場をもまきこんだ。
既知の間柄であってもそうでなくても、
何かのきっかけを皮切りに、さらに打ち解けていくような無言のほのめかし。そうでもあるような、ないような風で、いじらしくも愛おしい。


・いる派(花形ら)

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は、ただそこにいることへの言及と身体性に専念する。
無言、黒タイツの2対。

自らの視界を足先や肛門にすえられた小型カメラに託し、それ故、時にくんづほぐれつし、ちびっこたちのちょっかいをあしらい、観衆の好奇心を挑発し、大人たちに囲まれれば三点倒立を見せつける。

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没頭するあまり、休憩を忘れたことをマネージャーらしき人に愚痴りつつも、結局ぶっ通しで宵を迎えて「いる」のが印象的だった。
「ロボット」という語を世に放った、SFの始祖であり園芸家でもあるチャペックは、
「どうしようもなく夢中になって土にすがりつく私は、常に頭より尻が上にあり、四肢は土をいじる道具となる。その無理な姿勢のために痛む背骨は抜き取ってしまいたいくらいだ」
といった。その魂を写し見るような体験だった。


・いる派(坂口)

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は、ひたすら藪の中にいた。

半裸で自撮りを棒片手に、西洋彫刻的で難解なポーズの軌跡を、     その体に黒ペンで日没まで刻み続けた。
それはSNSで映えを求めて自撮りを長きにわたりアップし続け、
長尺の行為を凝縮した、その末路を示唆して「いる」。
繰り返し刻みつづけて真っ黒になって炭くずの様になってしまった、
自らの時間をなげうっても発信しつづける身体は、はたして誰のものなのか。

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・いる派(小寺)

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裸にトレンチコート(のように感じさせる装い)で徘徊し抜群の存在感を示す。
さりげなく無作為にふるまうようでいて、その眼光は鋭く、
際立ちつつも目立たない場所を的確にとらえて立ち回る。
周辺を抱き込んだ構図の美学をリアルタイムに体現しつづけていたとも言えそうだ。
一度、気になってしまえば、その挙動は限りなく怪しくて、
さりげないふるまいに騙されそうにもなる。
が、冷静に考えれば、どう考えてもそんな人は、普通はいない。
そう思って脳は拒否する。がしかし、そこに、彼は、明らかに「いる」

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・小林 勇輝

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池のふちぎりぎりで、頭部を覆いつくす風船と、つぎはぎされてあまりにも長くなり過ぎたウエディングドレスを纏って言葉なく立ちすくむ。
覆われた顔は、しかし、何か遠くを見続けているようでもある。
鑑賞者は、ドレスの裾からその先の身体へと導かれ、
それが向く先の風景を借景しながら、やがて思いを馳せだす。

そこに集まった好奇心旺盛な子供たちの言葉を集めると、
「足がないよ!幽霊かな?」などと言っていたが、
実際はそうでもないので、

彼らには、少なくとも何らか、目に見えている以上の何か。
例えば、能の世界。精霊。超自然的なもの。

あるいは、はるか古代に存在していたとされるアンドロギニュス。
そういった、超越的な存在を感じたのではなかろうか。

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・梅田哲也

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イベントの締めくくりを飾る。
2人乗りの小さい舟で、どこからともなく現れ、川を揺蕩いながら右往左往する。満月のようにも見える明かりが少し高く掲げられ、
それとともに、なんとなく聞こえるのは、
不明瞭だが、それ故、懐かしくも感じられるラジオの音。
反して打ち鳴らされる明瞭なタムの音、角笛の様な音が船上からまばらに放たれる。
それぞれが現れては街の音に溶けるような明滅を繰り返す。
それらは何だか、はるか遠くの祭りの様な、戦前でも、戦後でも、戦中でもあるような。
明らかには言い難いプリミティブな何かを想起させる。
例えば「まだ肉食を知らない時代の僕たちは、こうやって日々を過ごしていたっけ・・・」
というような、体験していないのに懐かしい感覚。

感傷的になっている間に、船は橋をくぐると同時に明かりが消え、
視界にとらえられなくなってしまった。
やっぱりあれは、幻視だったんだろうか。
とも思う。

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荘子の「胡蝶の夢」という話がある。
夢の中では蝶になって飛び回っていたが、起きて我に返ってみれば自分である。
果たして、どちらが本当なのか、どちらにせよ、あっけなく儚い。
あるいはどちらも自分なのだ。という話だ。

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まる1日、日常的な公園の中にいながら、インパクトあるそれぞれの表現に向き合うことで、私は次第に恒常的な日々から切り離され、乖離した。
私と公共は融解し、時間も場所も超えて、どちらも、どれもが私になってしまった。


視界が、感覚が、揺らぐ。
恐ろしい。
Agoraphobiaとはこういうことか。

だがしかし、これらをもって、なお、
それらを記そうとさせるアートの駆り立てもまた恐ろしい。

触発され、私は、私を離れながら、より私の内側へと向かうことで
このテキストを吐き出せざるを得なくなってしまった。

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