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星と星のあいだの呼吸。

夫には内面の記憶がない。
(正確には、自ら思い出せない)
視覚優位だから頭の中は画像ライブラリーになっていてタイトルがついていない。名無しの宇宙。
私の記憶には言語化したタイトルが何となくついていて、関連した言葉や時間軸、音や映像に触発されて内面の記憶=その時の気持ちも思い出される。だから、少なくとも私の感覚で考えていたら、いつまでたっても夫とは夫婦の思い出話は共有できそうにない。

自分の親兄弟、友人、知人、色んな人と話して来て、記憶の共有が難しいと感じた経験が夫以外とはない。どちらかが忘れてしまう事は勿論あるけど、あの日あの時あの場所であなたと◯◯だったね〜の話は、特に問題なくスッと通じてきたと思う。
それなのに、明らかに二人で体験し目撃した事を夫は「覚えてない」と言いきるから私はどうしたって戸惑うし、不安にもなる。

これからも一緒に居たいけれど、今の記憶は明日には思い出してもらえないかも知れないし、このまま二人の時間を積み重ねて大丈夫なのか?と、結婚してまだ3年だから引き返すなら今だぞ?などと、ふと、過ぎっては不安になった。

けれど、記憶の仕方や認識自体に大きな違いがあって、夫は脳の特性上、凄く辛かった事が残りやすい。
だから2020年を振り返ると、正月に自分が熱を出して寝込んだ記憶しかない、と言ったのだ。
私はそれを改めて聞いて、やっぱり嫌な気持ちになった。
だってそのあと三ヶ日を過ぎてやっと食べられたおせちの話や、コロナ禍の自粛期間を乗り越えたことや、アボカドを育て始めた時のことや…特に今年は、二人の間で二人しか通じないような内面の変化の多い年だと私は感じてきたから。パートナーがそれを思い出してくれないって一人ぼっちみたいで寂しいと、どうしたって反射的には思ってしまう。

それで、よくよく話を聞くと、記憶がお正月しかないわけではなく、その時の体調の悪さが凄く辛かったから自力で思い出すのがその時だけということ。それ以外思い出さないということは、他はすべて、その時その時幸せで楽しかったということ。
やはりよく話を聞きかないと、夫の言葉は誤解してしまう。
夫の内面はとても穏やかだ。あまりに感情が平坦すぎるからこそ度々揉める原因にもなるけれど、そこが気分のコロコロ変わる自分と違って、夫の好きなところでもある。

そこで気付いた。これってマインドフルネスの考え方に似てない?過去や未来の一切を考えず「今」だけに集中すると、幸せや喜びをいっぱい感じられるようになるっていうアレ。実際、夫は常に全力だし、常にご機嫌だ。
だから、その意識の持ち方や集中の仕方に興味を持ち、最近私は"瞑想"にハマり出した。
「今ここ」だけに集中するクセがついて来ると、余計な事を考えなくなり集中力が増すらしい。
私の気持ちは、生まれつき不安定で、心ここに在らずになりがちなので、ヒマな時間を見つけては、自分の呼吸や五感に集中してみている。

もしかして夫の頭は、自分を守るための優先順位が物凄くハッキリしていて、生きるために必要ない事は容量を圧迫するから切り捨てているのかも知れない。
脳みそも容量が大きければ良いものではないなと思うのはこういうところで、私は夫よりは余裕があるからこそ、無駄にしている気がする。まるで広い部屋だからと言って散らかして、結局使えるスペースが狭いみたいな効率の悪い使い方をしてしまいがちだ。昔の出来事を思い出して落ち込んだり、先の事を案じて時間を垂れ流し「今ここ」が一番疎かになりがち。
でも、瞑想をはじめてから、そういう無駄は減ったように感じる。何でも使い方次第だな、と思う。

つまり、夫は生まれつき常に「今ここ」を全力で感じて思考して、その時その時に二人の幸せを感じ尽くし、後には何も残さない人なのだ。だから、パートナーである私もそこを目指し「今」を精一杯共に感じられたら、確実に気持ちを「共有」できるんではないかと。そうすると「思い出」って一体何なのだろうね?とさえ思ってしまう。

でもさすがに、ついさっきの言葉や見たものも忘れられてしまう事もしばしばだと、二人のあいだに冷たい風が吹き抜けるけれど…。とにかく夫の記憶は「今」の画像の連続で流れにはなっていないらしい。

そのうえ、タイトルのラベルが貼られていない画像ライブラリーである、名無しの宇宙から記憶を呼び起こすには、私が鍵を開けないと開かない。
夫から思い出すことは難しい。

「妻ちゃんは二人の(内面の)記憶の保管箱になって」
とその日、夫にお願いされたその言葉は、とても切実な響きを帯びていた。
きっかけさえあれば思い出すから、と。


当然のようだけれど、改めて、他人と「記憶を共有する」というのは、とても深い事だなと夫とこの話をしていて思った。
今までだって、問題ないと感じてきた他の人との思い出の共有だって怪しいものだ。人それぞれ、感じている物事や感じ取り方が違うなら、同じ言葉を合図に思い出す事はできていても、会話上で成り立っているだけで、本当に同じ記憶を辿れているんだろうか?同じである必要はないけど、一体相手はどんな記憶を今現在の頭に再現し、投影しているのだろうか。そんな事を考えると可能性は無限に広がる。

夫と話すとこんな風に、今までは「こんなもの」と思考を停止していた行き止まりの壁の先を見る事ができる。
それ自体が、とても豊かな事だなと私は感じるのだ。


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