空いた隙間に

何かを手放すと空いた隙間に別の何かが入ってくる。別の何かで隙間は埋まる。

例えばクローゼットを片付けて、その空間に物が無くなったら、その空間は『空気』で満たされる事になる。
空気は目には見えないけれど、ある種『物』であり、空気(空間)とは、酸素・窒素・二酸化炭素等の、水素原子や酸素原子がくっついてできた分子という『物』で隙間無く充満している。

人が一人死んだとしても、地球のどこかで誰かが生まれてる。
人類が滅んだとしても、別の何かが増えている。ウイルスで人類が減ったら、その分ウイルスの数は増えたという事になる。
地球が滅んで無くなったとしても、宇宙のどこかで別の惑星が生まれる。

宇宙の質量は常に一定であると。
何かが無くなって、何かが生まれているだけ。形を変えているだけ。

宇宙=神であると。
神様が形を変えているだけ。分かれてみたり、統合したり、無くなったり、生まれたり、宇宙(神)はうねうねと形を変える。
この変化が止まった時(動きが無くなった時)が、完全に『安定した』という事だ。
コマが回り続けるように、自転車が走り続けるように、安定して見えている物も本当は常に動き続けている。その物が完全に安定する時というのは、コマが回転をやめて横たわる時であり、自転車が横転して止まる時である。

神様が形を変えているだけというのであれば、私も神の一部であり、私以外の人も、私以外の動物や虫も、私以外の物も、気体も液体も、光も音も、全て神だという事になる。そういう意味で、私達は元々一つであると。

何が無くなっても減るわけじゃない。私が生きているという事ですらそんなに大した事じゃない。
たまたまこういう形で、たまたまここにいて、たまたまこれをやっている。
でも、たまたまこういう形になった『理由』は何かしらあるはずなんだ。その答えは何かって?それは、たまたまこういう形で、この形が自然と消滅するまでナチュラルに存在し続けていればわかる事であって、今考えたってわからない。その答えは、将来にあるわけでなく、過去にあるわけでなく、ただ存在して、ただ生きて、なぜか起こる身の回りの日々の出来事を『体験』して、体験する事で何かを思い、何かしら心が反応し、また何かが身の回りに起こる。一連のその事自体が答えであると。

自由なのは、その出来事を体験し、私がどう『思う』か。その体験をどう『理解』し、どう『解釈』するか。そこだけは完全に自由なのだ。

そうだとすれば、その出来事を都合よく解釈した方が得なのではないだろうかという思いになる。あえてネガティブに解釈する理由があるだろうか?

私というこの存在がこの形である期間限定のこの期間をどう過ごすか。起こる出来事をどう解釈するか。
そもそも無くなったって無くならないのだから。

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