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課金から投資へ。

クリスマスイブに何を考えてるんだお前と思うだろうが、自分のオタクとしてのアイデンティティを最近改めて見つめ直すことになった、というお話である。

中学生の時から2次元のオタクをしていた。中1の時からボーカロイドの動画を漁っては神曲を発見しホクホクする毎日。MADや歌ってみたなど何度聴いたか分からない。そのうちアニメも観るようになって、大好きなキャラも出来た。大学生になって自重を覚えたものの、相変わらずボカロを聞いたり、アマプラでアニメを観たりしていた。

中高から仲良くしてくれている友人達も、卒業後もオタクを続けているようで、会うたびにその話で持ちきりになる。皆アニメの他にも好きなジャンルがあって、声優さんや宝塚、ジャニーズなどの“推し”への想いを共有してくれる。イベントやコンサートの話をしている時の友人達の表情は生き生きしていて、本当に各々の“推し”を心から愛しているんだろうなというのが伝わってくる。

だが最近、オタクの話のテンションに徐々についていけなくなっている自分がいることに気づきはじめた。話を聞いて楽しそうだな、とは思っても妙に冷めている自分がいる。“推し”の話をされてうんうん、カッコいいんだね、演技や歌が素敵なんだね、と思う自分の裏で、ふうん…そうか…と少し明後日の方向を向いている自分。

大学生になったことで金銭的余裕が生じ、オタク達は“推し”にしっかり課金が出来るようになった。課金することで生身の“推し”の一挙一動を拝み、またさらに好きになる。この循環の中に彼女達はいて、そこにしっかり馴染んでいる。友人の一人がとある声優さんのツアーを全通すると聞いた時にはその熱意と想定されうる課金金額に素直にすごいと感心したものだ。

しかし自分は“推し”に課金することへのパッションが彼女たちと比較すると著しく低い。生粋の守銭奴気質が災いしているのかもしれない。来年以降社会人になってより自由にお金が使える環境になったとしても、何千円もする声優さんのイベントにポンと野口さん達を出せるかというとそういうわけではないので、やっぱり課金への抵抗感が半端ないのだろう。

友人達は“推し”のために仕事をするんだ、と言ってて、その時はなるほど合理的だと思ったが、しばらくその言葉を反芻していたらその動機って宗教と一緒じゃない…?と思えてきてしまった。まあ“推し”というのは神様、課金はお布施みたいなものだと言ってしまえばそれまでである。自分にはその”課金するオタク“の理念がどうしても相容れないようだ。

こんな私も、今年6月にゴールデンカムイの展覧会が東京で開催された時には、全話読んだコンテンツというのもあって行きたいな…とかなり強く思っていた。結局気心の知れた友人と行くことになりそれはそれは大変充実した一日となったのだが、チケットがまあまあ安価だったのが最大の要因である。これでチケット5000円だったら、杉元佐一と土方歳三を拝むより行かない選択を取っていただろう。

結論、自分は以前と比べると信仰心の欠けたオタクになったのであろう。中高の時は特定のキャラに陶酔する気持ちも持ち合わせていたが、大学生になってからはだいぶなくなってしまった。(実は夏に信仰心復活の兆しがあったが長続きはしなかった)

そのかわり、自分はコンテンツを享受するより生み出したいオタクになりたいという気持ちが人一倍強いことに気づいてしまった。

周りのオタク達が課金をして”推し“を享受し、さらに好きになってというサイクルを繰り返す横で、自分はコンテンツを生み出し、色々な人々に見てもらい、また何かを生み出すオタクになるのである。これで友人達と話す際に感じた違和感の正体も解決である。信仰心を無くした代わりに、信仰される側になりたいというなんとも図々しいオタクとなったのである。

そんなわけで、趣味であるイラストと写真撮影をより一層頑張ろうと思えるようになった。そのためにここで初めて課金をすることになる。カメラのレンズとか、イラストの液タブとか。これは課金というより“投資”と言った方が適切な気がする。早く烏滸がましいタイプの社会人オタクになりたいものだ。




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