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「もう春は来ない」と言われた木々達はどう思うだろう?

このまま耐えて耐えて立ち枯れるのか?
この環境を捨てて遠くへジャンプアップ出来るのか?

出口の見えないトンネルの中、そしてトンネルはほの暗い…。
自然界は春で希望膨らむ時期、まさに冒頭の「もう春は来ない」と言われたかのような心境ではないでしょうか?

しかし、実際には春です。
樹々たちは黙々(この場合は木々とでも書く?)と、花を咲かせ、葉を茂らせ、種の保存の希望に満ち満ちています。鳥は囀り、花は咲き、虫達も踊っています。

でも、人々の頭の中には暗雲が立ち込めています。

樹々や鳥、虫たちは春がきたからと言って「仕事」をしているわけではありません。
「営み」をしているのです。

いまの私たちに必要なのは「業務」ではなく、「営み」なのではないかと思いました。これは、仕事を捨ててパーソナルな「営み」をしろと言う意味ではありません。

これからは「仕事」ではなく「営み」

「業務」ひいては「仕事」とは、最終的に社会の「営み」なのだと今回の騒動(あえて騒動と言います)は気づかせてくれたような気がします。

現代人は「仕事」と「営み」の差があり過ぎるので、それが全く別のことのように思えてしまいます。
それは、仕事が複雑になり、自分のやっていることが一体世の中のなんの役に立っているのか?分かりにくいからではないでしょうか?

「営み」に直結したものを扱う仕事が減り、いっそうその肌感覚が分からない。
そうすると、「自分のやっていること」が、「自分が食べているもの」に直結している感覚が欠如してきます。

この流れはデジタル化、インターネット化、AI化とどんどん突き進んで行くかに思えたのに、何かこう頭を鈍器で殴られたかのような衝撃が今ではないかと思います。

ウィルスと言う生物なの?といった存在に、気づかされたような。

オンライン化が進むほどリアルミートが尊くなってきた

この騒動によって、オンライン化、DX化が加速すると言う方が大勢の中、実は人と人は対面が尊いと言うことを気づかされたと言うコトも大きい気がするのです。

仕事、業務と考えるとオンライン化、ネット化、DX化の加速は効率面で歓迎です。でも、「営み」は効率化ばかり追い求めるとやはり難しい。

仕事は、暮らしであり、営みにつながっていることを体感できないと人は非常にストレスフルになると言うのに気づかされたような。

木々は倒れない限り、また芽吹きます。
しかし、それは春が来ればという前提です。

今は、変化のチャンスと捉えると同時に、「遅れたけど、ようやく春が来た。」と言える日を見据えて、個々人が出来ることを粛々とこなすしかないのでしょうか?

春よこい。

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