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人生にプラスワンを

タイトルは私が農業を始めた時からのモットー。あまり人から聞かれることもないので言わないけど、ずっと胸の中にある言葉。
食べたものがカラダをつくる。だから何を食べるかはしっかり選ばなきゃいけない。それは決して唯一の正解があるということではなくて、要はバランスの問題だ。そしてそこには食べもの自体だけではなく、いつ、誰と、どんな気持ちで食べたかっていうのも大きな要素として関わってくる。
同じようにこんな風にも言えるんじゃないだろうか。感じたものが人生を作る。人生がいい思い出だけだったらどんなに素敵だろうと思うけど、実際にはそんなことはあり得ない。悪いことだってたくさんある。でも大切なことをしっかりと覚えていれば、人生はいつだって良い方向へ向かって行くんじゃないかなって思うんだ。よく噛んで、消化して、吸収したものが自分の人生になっていく。悪いことだって、意外と悪くない結果をもたらすかもしれないよね。
今回は私がなぜ農業を始め、農業で何を表現したいのか。私の人生の紆余曲折のストーリーを書ける範囲でちょっとだけお話しますね。


農家の息子として生まれた私は3人兄弟の末っ子。私が生まれた頃、ウチの畑の周りは畑と田んぼばっかりで、その中にポツンと学校が建っていた。他校からは“畑の中の学校”なんて言われていた。
当然子どもにとっては格好の遊び場で、虫取りアミを持って走り回ったり水田のオタマジャクシなんかを捕まえたりして遊んでた。幼稚園に入園するまでは家で本を読んでるか、野原を駆け回ってるかという両極端な遊びをしていたなぁ。ひとりで。
物心つく前に祖母が脳梗塞で倒れて寝たきりに。家では祖父が介護、母親は介護の手伝いと畑仕事と家事で大忙し。父は家族を養うために朝から晩まで必死に働いて倒れたこともあるぐらい。兄弟は学校に行ってるから、私の4歳の1年間はずっとひとりだった。だから誰もいない8時から15時ぐらいまでの時間は大嫌いだった。今なら1年なんてあっという間だけど、4歳児にとっての1年は無限のように長かったなぁ。なんでこんなに自分はひとりなんだろうか?みんなこうなの?「お前は橋の下で拾ってきたんだよ!ハハハ!」っていう父親の冗談の一言が、その時は事実に思えて本気で悩んでたりした。自分はいちゃいけないんじゃないかって。
そんなこんなで埋まらない寂しさと不安を抱えた子どもは5歳以降、幼稚園や小学校でたくさんの同い年と出会って人と触れ合う楽しさを知る。陽気にもほどがあるだろうってぐらいうるさい子どもだったけど、結構知恵が働くところがあったので先生に怒られることはあまりなかった。ただ、家族にもちょっかいを出しまくるから家では常に誰かに怒られてた。まだ自分がみんなと血の繋がった家族って信じられなかったんだよね。怒られるのはすごく嫌だったけど、気を引きたかったんだ。他愛のない冗談でも、状況によっては心を大きく傷つけるんだよ。

この頃、ひとつ明確に覚えてることがある。私が5歳で祖母が亡くなったときのこと。農家の家ってそれなりに広いから、その当時は家でお葬式をするところが多かったんだけど、ウチもそうだった。ご近所さんや母の実家からたくさんお手伝いの方々が来てくれて、忙しなくいろんな準備をしてるとき、母親が突然泣き崩れた。母方の祖母、つまり母の実母に抱きかかえられながら言った一言が未だに耳に焼き付いてる。
「辛かった」
これは終盤に繋がるお話。

小学校の高学年から中学校と、陽気さは変わらなかったけど、同時に心の中の暗いものも大きくなっていった。いわゆる思春期の反抗期というやつだけど、私のはちょっと半端なかった。もともと勉強や本を読むのが好きだったのでそれなりに優等生ポジションだったけど、イラつくことがあれば相手が誰であろうと噛み付きまくってた。あ、歳下には噛み付いたことないな。陽気な性格と誰彼かまわず話しかける度胸はあったから友だちは多かったけど、学校内のどのグループにも属さないから不良くんたちに目を付けられたり陰湿なイジメの対象になったり。同い年に負けるつもりは全然なかったし、優等生ポジションも利用して一部の先生を味方につけながら立ち回ってたけど、また違う一部の先生にもケンカを売ってたから、かなりタチが悪かったと思う。当時はまだ鉄拳制裁がある程度許された時代だけど、私にそれをしても無意味なのをわかってるから先生も困り果ててたんだろうね。ただ私は何もないのに怒るほど凶暴ではなかったから、怒る内容には自分なりの考えがハッキリとあった。ある時私の人生を変えた一言を先生の中の誰かが発した。
「もう面倒くさいから反抗はやめろよ」
間違い無いですよね(笑)って今なら言えるけど、その時の私にとっては人生で1番激昂した言葉だった。「面倒くさいから」ってのはどういう意味なんだ。いつもは綺麗事を押し付けるのに、いくら問題児相手とはいえその言葉はないだろうよ。そういうところに不信感を抱いてたんだよ。私は中学2年で学校へ行くのを辞めた。

そこからは家に篭ってるか夜な夜なフラフラしてるかの生活がスタート。当然両親とはケンカが絶えないし、お互いにどんどんと角が立っていく。掴み合いなんて日常茶飯事。この頃既に今と同じぐらいの身長だったので、父親は大変だっただろうなぁ。ごめんね。頻繁に夜中に大声で怒鳴り合って、ご近所の皆様方にも大変ご迷惑をお掛けしたことをお詫び致します。もうこの時期に人生の半分ぐらいは怒ったんじゃないかというぐらい怒ってた。あまり思い出すのも楽しい話じゃないけど、その時に私は大切なことに触れている。家族が寝静まった夜中に冷蔵庫を漁る私のために、母親はいつも夜食を作り置いていてくれた。毎日毎日ケンカしてるのにね。これも終盤に繋がるお話。

ひとりの荒くれ者のお陰で休まることのない日々が続いていた我が家だけど、私は進学することを選ばず、気ままに働いて自分だけの人生を歩んでいく道を選択した。そんな自分勝手な奴が仕事できるのか?って話だけど、私はむしろ仕事をするときが1番楽しくてイキイキしてたかもしれない。逆鱗に触れない限りは陽気な性格だし、最低限の礼儀も知っていたのでどの職場でも人間関係はまあまあ良好。負けず嫌いだから仕事も早く覚えようとしていた。いろんな仕事をして、いくつかの職場で社員登用の話をもらったけど、すべて断った。なんか違うんだよね。20歳の時に某大手カフェで働きだしてから、少しずつ自分の感覚が変わってきた。自分の本当にやりたいことが定まってきた感覚。ほぼ毎日来られる老夫婦。日本語ペラペラアメリカ人留学生。いつもカプチーノを頼む紳士。ほかにもたくさんの常連さんがレジでも客席でも私に笑顔で声をかけてくれる。
「お兄さんに作ってもらった時は特に美味しい気がするよ」
なんて一言と一緒に。自分がやりたいことは、こんな何気ない一言のやり取りでほんのちょっぴり幸せな時間を与え合える仕事なんじゃないかって。噛み付くしか能がないと思ってた自分でも、この仕事なら「ありがとう」って笑顔で言ってもらえるんじゃないかって。自分はカフェがしたいんだ。そう思えた頃、わだかまりがないとは言えないけど、両親との関係も少しずつ好転していた。

そうと決まれば他のカフェでも働いてみよう!ということで地元のカフェを辞め、オフィス街のカフェに転職。金融関係の企業が多い立地だったので、朝はなかなかピリピリした空気が漂う。この環境では何があってもしっとりしつつ明るい空気を心掛けよう。ピリピリに引っ張られるな。皆さんが戦場に向かう前のひと時をほんの少し穏やかに過ごせるように。いやいや、先輩も社員もピリピリし過ぎてるだろ。それなら尚更しっとりと。そんなことを考えながら働いていたら同僚や後輩から慕ってもらえて、後輩の女の子からまた大切な一言をもらった。
「ありがとうって言い過ぎですよ」
その子は口調がぶっきらぼうで社員からの風当たりが強かったからすぐ辞めるつもりだったみたいだけど、私が事あるごとに「ありがとう」と言うから辞めるに辞められなくなったらしい。
結果的に彼女はたくさん「ありがとう」と言われる仕事をしてくれるようになった。
その場では笑って流したけど、あとでちょっと泣いた。

そしてその会社でも社員登用の話をもらえた。25歳の時だったかな。将来的には自分でカフェをやりたいけど、一度正社員をしてみるのもいいか。そう思ってそのお誘いを有り難く受けた。なんだかんだ気楽な生活ももう終わりか、なんて考えながら残り少ないアルバイト生活を送っていたら、仕事中に人生のターニングポイントが訪れた。もともと腰痛持ちだったけど、立ち仕事をずっと続けてきたせいか遂に壊してしまった。これが本当にひどくて、結果的には2年近く這って移動するか足を引きずって移動するかというような感じだった。整形外科や鍼灸院に通ってたけど、無理を押して仕事もしようとするから日に日に悪化していき、ほとんど足が上がらない時期があった。人間は動けないと存在意義や存在価値を疑っちゃうんだね。職場はゆっくり治せばいいと言ってくれたけど、いつ良くなるかわからない自分が本当に嫌になって社員の話も断り退職。前職の頃から付き合ってた彼女は重めの持病があってずっと支えてきたんだけど、もう本当に存在してくれてるだけで嬉しかった。以前からそうだったけど、自分が守りたいと思う人の存在がこんなに自分の支えになってるのかって感じたとき。大げさかもしれないけど、あの時1人だったら一年かからずに腐ってた自信がある。それからはリハビリと自宅療養、といってもそれもすぐに無理するからなかなか治らなかった。自業自得だけどね。2年近く経って調子がいい時はある程度動けるようになり、どう社会復帰していくかを考えていた。いつまた動けなくなるか...という恐怖感があったから、実家のお仕事の手伝いをその一歩目にしようと決意。でも体は思うように動かないし、こんな簡単なこともできないのか...と気が滅入ることも多かった。それは秋から冬にかけての時期だったから、寒さが腰にも心にも突き刺さる。まだ自分の身体も心も信用できていなかった。自分はいらない人間なんじゃないかなぁ...なんて、いつか思った気持ちが再燃してきて払拭しきれずにいた。それでも何もしないよりはいいと思いながら続けていたら、育てていた小松菜にふと目が止まった。なんの変哲も無い小松菜。でもその小松菜が言ったような気がした。「ぼくは動けないけど、存在価値、ないかな?」
そんなことないよなぁ...絶対にそんなことないよなぁ...って涙が止まらなかった。今出来ることをやろうと思えた瞬間。

農業も悪くないし将来カフェをオープンした時に実家の野菜を使うのもいいな、なんて思いながら以前よりも前向きな気持ちで手伝いを続けていたけど、このときはまだ農業を生業にするつもりはなかった。とはいえ、やると決めたらその時の全力は尽くしたい人間だから、当時両親が数年前から始めたばかりの葉物野菜の直売管理を申し出た。具体的な話は省くけど、いろいろと手を尽くして冬季の直売売上は4倍以上になった。同じ期間出荷してるよりも良い数字。それは客単価も来客数も増えた結果だけど、私にとっては数字以上に嬉しいものを残してくれた。それは、たくさんのお客さんのストーリー。ただの野菜とはいえ、それがたくさんのストーリーを生んでいくっていうことを教えてもらった。1番印象深いものをひとつ。40代半ばぐらいの女性が私に話してくれた。
「私この前、こちらのお野菜でサラダを作ったんです。そしたら、息子が美味しいって言ってくれました」
その人は少し涙目でそう言った。たったそれだけの言葉。それだけの言葉なのに、私の頭の中でたくさんの想いが駆け巡った。もしかしたらその息子さんは反抗期なのかもしれない。そうだとしたら会話が少なくてもおかしくない。愛する我が子を気にかけて声をかけても、「うん」とか「わかってる」とか「ほっといて」とか、そんな言葉しか返ってこないのかもしれない。もしそうなら、その中で「美味しい」の一言はどれだけ嬉しい言葉だろうか。その一言を聞いた母親の心はどれだけ救われるだろうか。その一言を発した息子の心には何が残るだろうか。美味しい野菜にはこんな力があるのか。容易に届かない想いを、一瞬だけでも届ける力があるのか。一瞬だけでも繋げる力があるのか。私が本当にやりたい仕事は、「美味しかったよ」という言葉に私が「ありがとう」と返せる仕事だ。「ありがとう」と言われたいんじゃなく、「ありがとう」と自分が言える仕事がしたいんだ。「ありがとう」と言って生きていたいんだ。それはただの思い込みのストーリーだったのかもしれないけど、あり得ない話ではないと思ったんだ。この時、私は農業という仕事を生業にすることを決めた。そして、そのためにはやらなければいけないことがあった。私にはまだ「ありがとう」と言っていない人がいた。

家で両親と向き合う。改まって話すのは緊張するよね。私は農業をしたいことを伝える。両親は反対した。それでも私が決意したことを変えないのは昔からだ。渋々ながらそれを受け入れてくれた。そして、もうひとつ伝えなきゃいけない。不登校時代に毎晩夜食を用意してくれた母親に「ありがとう」と。そこからはたくさん昔話をした。祖母が亡くなったときの母の「辛かった」という一言は介護と仕事の板挟みの辛さだけではなく、幼い私たち兄弟に対して満足に手をかけてやれなかったことの辛さも含まれていたらしい。母親自身もそれをすることを楽しみにしてたみたいだから、何重にも苦しんでたんだ。父親の不用意な一言で子どもの私が悩んでいたことを伝えると、子育てに関しては反省しかしてないって。必死だったのはわかってるから恨んではいなかったけど、父親も父親なりに苦悩してたんだなと感じることができて自分の心の中のつっかえは取れたように感じた。亡くなった祖父は私が生まれたときにこんな一言を言ったらしい。「ああ、こいつは大器晩成だな。だから親も子も苦労するぞ」って。ほんの一言の掛け違えがあっただけで、元から愛されてたんだよ、私は。でも、素直に伝えるって難しいよね。


あなたが口にしている食べ物は、たくさんの技術的な過程と、たくさんの想いの結実です。そしてあなたにそれを食べてもらいたいと思った、あなたを大切に想う人の愛情がこもっています。でも、そこにある当たり前の愛情なんて、なかなか感じられないよね。だから私はあなたに向けられた特別な愛情をあなたが感じやすいように美味しい野菜を作ってます。こんな事を言ってしまうのはトマト農家としては失格なのかもしれないけど、実は私は世界一のトマトを作りたいなんて思っちゃいないんです。別に無名のトマト農家でも全然良いとさえ思っています。私が本当に感じて欲しいのはトマトの美味しさじゃなくて、あなたを大切に想う人の愛情なんです。その愛情はとびっきりのスパイスではないかもしれないけど、きっとずっと心の奥底に残る味で、あなたの人生をほんのちょっぴり良い方向へ導いてくれるはず。でも、そのためには美味しいトマトである必要があるから、やっぱり美味しいトマトは作りたい(笑)
迷い、悩み、一言に振り回され、一言に救われてきた人生だから、あなたが大切な人から想いを込めた一言を言ってもらえるような野菜を作りますね。そして、あなたも大切な人に想いを込めて一言を贈ってあげてください。「ありがとう」って。
それが私のやりたいこと。


人生にプラスワンを。


あ、無名でも良いって言ったところだけど、もし良かったらたまには思い出してね。私、マルタって言います。マルタトマト☺️🍅✨

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