お嬢ちゃん

年始に鍋焼きうどんを食べたら夏目漱石の「坊っちゃん」を読み返したくなった。坊っちゃんが子供の頃、下女の清から買ってもらったというきんつば、紅梅焼き、蕎麦湯、鍋焼きうどんは、食べている描写は全くないのにとても美味しそうな響きがしていて、初めて読んだ時から強く印象に残っていた。きんつばなどはそれまで意識して食べたことがなかったのに、「坊ちゃん」を読んだ後は、和菓子屋さんに行く毎にきんつばを選ぶくらい、きんつば好きになっていた。

「坊っちゃん」は坊っちゃんが四国に赴任になって清と別れるところまでの最初の章が好きで、そこだけ何度も読み返していたのだが、正月休みの最終日に久しぶりに全部通して読んだところ、読んだタイミングが悪かった。現実世界における仕事始めが、狸やら赤シャツやらがうごめく魑魅魍魎とした世界に飛び込むような気分になってひどくナーバスになっていた。実際に仕事始めを迎えてみれば、幸いなことに我が職場には狸も赤シャツもおらず、まずは平穏な第一週目を終えることができホッとしているところである。

週の半ばには第二の故郷に立ち寄った。年末にも訪れたのでわずか二週間ぶりくらいなものなのだが、やはりこの町は落ち着く。心穏やかに仕事に復帰できたのもこの町に今もある馴染みのお店や、この町との想い出に支えられているからなのかもしれないと思ったりもする。無条件に受け入れてもらえる感覚になれる場所や人があるというのは重要だ。心がささくれ立っている時でも、この町で人の温かさに触れて癒されることがたくさんあり、それはこの地から離れた今でも心の中の支えになっているのだと思う。坊ちゃんがどんな場所でもどんな時でも坊ちゃんでいられたのは、清という存在があったからというところに似ているのかもしれない。

さて、仕事が始まってまだ一週間。我が職場に狸や赤シャツはいないことは確認できたが、今後まだ狐やら黒シャツが登場する可能性は大いにある。そんな時でも、曲がったことはでぇ嫌い、未練なく辞めてやらぁ、という坊っちゃんのような江戸っ子魂は私も忘れず、親譲りの無鉄砲で進んでいきたいものである。自分にも清という味方が常にいるということを忘れずに。


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