表現者として、「自分は何を創ろうとして、何を創っているのか」、という自覚を常に忘れない。という戒め。
またまた、とある記事が物議を醸し出しているようで、どういう結末になるのか、わたしもまたまた半分興味本位で見物しているのですが。
この手の問題が起きるたびにわたしが思い起こすのは、あの有名な『ハゲワシと少女』の写真です。
表現者として、他人になんらかのインパクトを与えるような作品を創りたいと思い、創り、発表したいと思い、発表する時、結局は自分もあの写真家と同じなんじゃないの?そうだよね?そうでしょう?と思って、げんなりする時があるのです。
何が正しい答えなのかはもちろんわかっている。そうだ、作品を創るより前にするべき事があるのはわかっている。それでも作品を創って、そうそう、こんな作品が創りたかったんだよ!良い作品だなぁと思って、発表して、社会的な評価を得たりして、それを誇らしく、嬉しく思ったり、そんな未来を夢みたりする事のエゴと浅ましさ。
「作品の評価=自分自身の評価」ではない。としっかり認識しておかなければならないと思っている。そこを間違えると自分自身の評価を高めるために良い作品を創ろうとし始める事になる。作品の価値はそれ単独のものだ。例えば、無差別殺人を犯すような非人道的な人格の持ち主が、誰もが称賛するような美しい絵を描いたりする事もあるだろう。
そのような事を全て理解した上で、覚悟の上で、発表する時はします。そうでなければ表現者ではいられないとわかっているから。そしてその作品に対して真っ先に批評するのは常に自分自身でありたいと思っている。その作品がそんな綺麗事だけではない、そんな称賛に値するだけのモノではないという真実を1番良く知っているのは自分なのだから。
そして今書いたこのnoteこそ、まさに『ハゲワシと少女の写真』なんじゃないかとも思うので、いたたまれなくなった時はまたいつもの様に消させてください。これは覚悟もなく無責任に書いています。ごめんなさい。
〜fin