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言の葉,観念

ずっと話すことや文章を書くことが嫌で,でも伝えたいことはあって,どうしてこうも私の伝えたいことに対して天邪鬼なんだと凄く憤りを感じながら過ごしていた.絵や音,もの,パフォーマンスはそれを代替してくれていた.これからもそれらのメディウムは大いに助けてくれると信じている.
だけど最近はそれだけじゃコンテクストが伝えきれない部分もあることが増えた.私の表現が不十分なのか,それも大いにあるだろう.しかし根本的な原因ではないようにも感じる.ただこれをそのまま放置しておくと作品のコンセプトととの乖離が進行していくことも避けられない.

ここ2ヵ月ほど作品の参考になる文献を探して書架と机を往復している.最初の2,3冊は膨大な文の中にあるそれっぽい文章を見つけては書き留めているだけだった.それでいくらかコンセプトの肉付けにもなっていたから特に気にも留めていなかった.違和感があったのは松澤宥さんの『量子芸術宣言』を読んでからだったと思う.先生から勧められてというのもあり自分の興味はそこまでなく,ただただコンテクストの読み取れない文字列や図表が紙に敷き詰められているだけにしか見えなかった.2回,3回と読み込んでどうにかその本に含まれているなにかを探していた.
でもどこまでも深く深く何もなかった.
ああ,私の頭が足りないんだ.
そこをみることは叶わないんだと.
それでもすがろうとしてカタログなどを読み漁った.その中で1つ引っ掛かりを持った言葉が目に付いた.いや,違う色をしていたと言った方が正しいのかもしれない.

空虚な場

言葉一つ一つを明らかにしていくことがそこに集まっているものを捉えるためのアプローチとして,正しいとは言えなくとも間違っているとも思っていなかった.ただそれが全てにおいて当てはまるわけもないことを失念していたのだ.

彼の作品は意味論的においては空虚な場でしかなかった.当然個々の質料や形相に焦点を当てたところで何も見えるはずがない.彼の作品は空虚であるからこそその空虚な場に観念が誕生しうるのだと.

彼が本当に表現したかったことは知らない.だけど彼がその空虚な場に自由な観念を求めたならば,私はこの1つの問題提起の解がないテキストを以て答えとする.