(備忘録)源範頼(蒲殿)あはれ

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なんやかやあって範頼主従は、修善寺から舟で脱出。

三万坪の別邸があった瀬ヶ崎(横須賀市金沢区六浦辺り)を目指した。

別邸近くの浦郷 榎戸湊に舟を寄せ(浦郷町2丁目 深浦湾)、土地の漁師平兵衛の助けで洞窟に暫く隠れる。(浦郷町5丁目:岡村製作所追浜工場敷地内)

【追われて上陸した浜「追浜(おいはま)」が転嫁して オッパマ】

【現在の正禅寺近くの谷戸に18基の横穴があり、蒲冠者範頼ゆかりの霊穴といわれていたとのこと】

しかし、鎌倉の間者に知られ、刺客が差し向けられ、平兵衛は鉈をふるって戦い範頼一行を逃れさせた。範頼は、平兵衛に短刀一口と守護観音、蒲冠者の蒲の字に、匿われた谷戸の谷を加えた蒲谷姓を与えた。横須賀スタジアム周辺の地名「鉈切」の由来。

金沢区・追浜・逗子には「蒲」や「蒲谷」姓が多い。(実際、一昔前、鉈切地区はほとんど蒲谷姓だったそうだ)

結局、範頼一行は、対岸の別邸敷地内薬師寺(金沢区室の木辺り)まで逃れ、主従ともども自刃。

正禅寺 裏の小高い丘「権現山」にある神明社が、平兵衛の鉈を納めていた鉈切神社・鉈切明神とのこと。

範頼一行が自刃した別邸内の薬師寺(持仏堂)は、後、臨済 開祖 栄西が、範頼の戒名「太寧寺殿」に因み「太寧寺」として建立、瀬ヶ崎172番地(関東学院大学付属六浦小学校グラウンドと室の木第二住宅のあたり)にあり、範頼の首が埋葬されていた。

大正9年(1929)土地の人たちが由来を刻んだ碑を建立したとのことで、「小学校敷地内に範頼の首塚の跡があり、そこから柳の木が生えていた。1980年以前は、石碑が立っていたが、危険ということで撤去された」とmixiに書き込みがある。

大寧寺は、1943年(S18.5月)横須賀海岸航空隊の追浜飛行場拡張工事で、現在地(金沢区片吹)に移転。その際、裏山にあった「伝源範頼の墓」も、これに伴い当寺に移された。

現在の大寧寺境内には、「伝源範頼の墓」という古びた五輪塔があった。寺宝の位牌は、「新編鎌倉志」に「薬王寺の住持が年号月日を書きつけたもの」とのこと。

、、、で「薬王寺」の話。

金沢文庫 称名寺 赤門の前に「三療山薬王寺」がある。 元は、称名寺境内の僧房で「三愈山遍照坊」と号していたが、 堂宇の整備に際して、寺前に移し、薬師堂を併設。 江戸時代に三療山薬王寺と改名。

なぜ改名したかがよくわからなかったけど、範頼別邸内にあった持仏堂の薬師寺跡に大寧寺が建立された際、薬師の号が廃れるのを避け、位牌と念持仏の薬師如来や仏具が「三愈山遍照坊」に移され、墓は大寧寺が引き継いだ、といった感じ?

現在の 薬王寺境内にも、源範頼公供養塔(古い)や「大寧寺殿五輪塔」(新しい)がありました。

(追記)
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/.../oppama...

「古墳時代後期~終末期(6 世紀~7世紀)
 「鉈切横穴墓群」 浦郷町5丁目に所在した。東鉈切集落の裏山に存在した「範頼ヤグラ」と伝承する横穴群で、28穴が確認されていた。戦時中に破壊されたが、それでも戦後まで7穴が残存していた。のち岡村製作所の工場建設のさい取崩されて消滅した。調査記録はなく、詳細は不明である。」

「明治33  (1900)
9.30 東鉈切の源範頼伝説による戯曲「鎌倉山蒲桜重咲」が東京明治座で公演される。竹柴其水作、出演市川左団次、市川権十郎他。(『続々歌舞伎年代記』)」

「明治34(1901)
1.15 東鉈切の源範頼伝説による戯曲「蒲冠者後日聞書」「祖先光輝磨鉈切」が明治座で公演される。(『続々歌舞伎年代記』)」

「昭和42 (1967)
この年、岡村製作所(浦郷町5丁目)の工場建設のため、範頼伝説の「やぐら」が取崩され、消滅する。(社内報)」

(追記2)
「鎌倉史話紀行」https://dl.ndl.go.jp/pid/9522794/1/62

(追記3)
國學院雜誌 = The Journal of Kokugakuin University 72(7)
出版者 國學院大學、出版年月日 1971-07
https://dl.ndl.go.jp/pid/3365417/1/20




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