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思考執筆同時進行型メモ①~いくつかの短い思考~

【マクロな動向を踏まえたミクロな変化】
 リソース(資源、人、金)が減少していく中で、減少していくリソース(資源、人、金)を前提にしたシステムの縮小は必然。
 システムが生み出す供給に対する需要も全体数では低下してく。
 とすれば、リソースと需要の規模が縮小するなかで、限りあるリソースをどのくらいの規模に対して、どのように配分していくかということに関する新しいシステムを作る問題に直面する。
 新しいシステムを作る問題に直面すれば、価値観の方向転換を伴うため、自ずと立場や視座のぶつかり合いが生じる。
 何を基準に、何を指標に、どんな価値観で選択するのかということを避けて通れないから。
 そのぶつかり合いは否定的なものではなく、新しいアイディアや価値を創造するために必要な肯定すべきもの。
 そして、否定的ではなく肯定的なぶつかり合いの場にするためには、ただぶつかればいいのではなく、多様な視座を各自が横断できるようにならなければならない。
 多様な視座を横断するということは、生活で言えば自分の生活スタイルの外、仕事で言えば自分の専門分野の外、人で言えば自分の身の回りの関係の外、へと視座を広げるということ。
 多様な視座を横断するためには、幅広い人間との付き合いや関わり合い、あらゆるメディアを駆使した情報収集が必要になってくる。
 これまでの社会に生きてきた私たちの一般的な行動形態は、専門化・専業化によって効率化と充実化を図れば、安定した枠組みとレールを進むことができて、その帰結も見通しがついていたというものだった。
 けれども、前提となるリソースの減少と、枠組みやレール自体を見直していかないといけない今を生きる私たちの行動形態は、兼業・副業的に分野・ジャンルを横断することになる。
 それは、個人の範囲で横断する場合もあれば、他者との連携・補完によって横断することもある。
 個人の範囲で横断する際にも、結果的にネットワークの形成を通じて連携・補完型に収斂されていくだろう。
 都市部では、こういったリソースの減少と規模の縮小が問題になりにくく需要が飽和した状態なので、個々が包摂されずに需要に応答するかたちで細分化されたシステムによって分断されることによる社会問題が指摘されがちだが、地方では、現実的な問題として、「自分たちの力が及ばない大きなシステム」(それは例えば、需要とコストのバランスといった経済合理性)に組み込まれ、それに依存した形での「自分たちのあり方」では回らなくなっている現状がある。
 例えば、よく聞く話として、人が減り、需要が減り、閉店し、賑わいがなくなり、ますます人が減るといった価値低下の悪循環は、「自分たちにはどうしようもない大きなシステム」に「自分たちのあり方」が依存してきたことの象徴である。
 価値低下の悪循環によってできた余白は、私たちに「そうではないあり方」について考えさせてくれるきっかけになる。
 たまたま需要があったから賑わいと活気があったという価値を捨て、私たちにとって本当に大切にしたい価値とは何なのかを考えていくきっかけということである。
 言い換えれば、需要とコストのバランスといった経済合理性の外にある価値に気づいていけるかもしれないプロセスともいえる。

【理想的にはそうだが、直面している現実は】
 しかし、「新しい価値」といっても、そう簡単ではない。
 コロナ禍によっていろんなイベントが中止になる中に、昔から続く地元の伝統的なお祭りの中止もある。
 コロナ禍に入って3年目になる今年は、短期的なコロナの流行によって直前で中止になることもあれば、強い意思と価値観をもって開催することもある。
 ここで注目したいのはコロナ禍に対する価値や意思表明や、イベントや祭りの開催の是非ではなく、イベントや祭りを維持していくための体力や余裕の限界に直面していることが、コロナ禍を理由にすることで隠されてしまっているということである。
 例えば、コロナ禍における生活様式の転換のためのオンライン化によるコスト削減化や新しい手段の模索ということも、それ自体は喜ばしいことだが、既存の枠組みの延長線上の帰結であることに変わりはない。
 既存の枠組みとは、経済合理性である。
 そもそも、「コロナ禍に対応」という時点でこれまでの手段の変更が行われているかぎりでは、コストパフォーマンスの問題しか俎上にあがらない。
 余力や体力があればそうした手段の変更によって何が失われ、何が価値だったのかの再認識や、目的の確認が行われるだろうが、特に地方においてはなし崩し的に消滅していく傾向が顕著だ。
 「新しい価値」への転換は必要だけれども、そのための体力や余力の低下をどのように支えていくかが、まず大事になってくるのかもしれない。

【そもそも価値の転換や意識改革が言騒がれる背景】
 ○○主義が流行るときには、その前提に、○○が空洞化したからだということがある。
 例えば、伝統主義を重んじる人がいるとすれば、まさに伝統こそが空洞化したからこそ、そのことに危惧を覚える人がいるわけである。
 ○○主義と○○の空洞化が表裏一体だとすれば、本来は○○が失われた背景や、○○が失われたことによる影響や、失われた○○の代替案についての検討が必要になってくる。
 つまり、主義・主張のイデオロギカルな戦略よりも、枝葉を考えていく戦略が本来は合理的だと考えられる。
 そのように考えると、例えば、伝統があったのはその伝統を支える基盤がしっかりしていたからだと考えられる。
 伝統的な祭りを例にすると、奉仕作業やそれを担う氏子の存在が基盤となって祭りが支えられている。
 支える基盤が崩れればいくら伝統の価値を言挙げしても担い手がいない。
 さらに、価値や意識というのは、行動することや営みのなかで生じてくるものだということにも注意を払う必要がある。
 上から与えたり、擦り込んだりするものではなく、体験や経験をベースとして積みあがってくるもの。
 ところで、価値観や意識を育てるベースとなる体験や経験は非常に多様化しているし、育まれた価値観や意識は個人的なものもあれば社会的なものもある。
 そう考えると、一本化、垂直統合、中央集権といった戦略では太刀打ちできない。必然的に、冒頭の話のように、各分野や界隈の横断を通した多視座化しかないのである。

【多視座化は統合のあきらめなのか】
 この多視座化をどう落とし込むのかというところで、自分たちの力が及ばないシステム設計レベルと自分たちの力が及ぶ生活世界レベルが分岐する。
 システム設計レベルでは統計的に多数である需要を入れ込む必要がでてくる。
 そうすれば、どんな優れたシステムを設計しようとも必ずそこから外れてしまう需要が必ず存在する。
 そうした外れた需要に対する別のシステムを設計するということも一つの手ではあるが、システムは自動化されていくと不透明になっていくという懸念も考慮したほうがよい。
 私たちが生きている今の社会は、高度に専門化・分業化したことで非常に不透明になっている。
 自分が食べているもの、着ているもの、手にしているものがどのような経路で、メカニズムでじぶんのところに届いているのかについて全体の構造を把握し、コントロールすることなど不可能だ。
 そのことを踏まえれば、システムの多元化よりも、システムから外れるところは自分たちの力が及ぶようにしておくというのも手の一つだ。
 そのためには、自分たちの力が及ぶ範囲を自分たちの力で守っておくということが必要になる。
 この発想は、住民自治と言われるもので、政治的なアジェンダだけに限らず身の回りのことを自分たちで意思決定し、自分たちの価値を自分たちで管理し、保全していくという動きを意味する。
 このような動きが「新しい価値」づくりの基盤になっていくのである。
 そして、基盤になっていくための住民自治的な動きをつくり出すためには、小さな体験と経験の積み重ねによって、目の前にある大きな負担感を乗り越えていく必要があるのである。
 例えるなら、大きな石が目の前の道を塞いでいる時、それを大きな機械一台でどかすのか、人々が知恵を絞って、力を合わせてどかすのかの違いだ。
 もちろん、テクノロジーが発達した現在、大きな機械の力を使って低労力でどかすのが一番良いと思われる。使えるものは使うべきだ。
 しかし同時に、その機械が今後も調達できるのか、その機械を作っている部品はなくならないのか、その機械がもたらす環境的負担はどうなのか、その手法に人間が必要なくなれば人々間の紐帯はどうなるのか、といったことも考慮されるべきである。
 自分たちの連帯によって生まれた意思決定に基づいて、テクノロジーによる負担免除を借りることができれば、経済的合理性に振り回されずに、すなわち、不安定で不透明な大きなシステムの一部として個が疲弊することなく、目の前の大きな負担感を乗り越えていけるのではないか。
 

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