ケーキの切れない非行少年たち

私は発達障害なのですが
私の父も発達障害なんだろうなと、大人になった位から思い始めていました。出来ることに波のあるタイプで、それでいてできない部分を自覚しているので、自分を守るような内弁慶でプライドの高い部分がある。
それがもしかしかしてアスペルガーという特性に分けられるものだとしたら、連れ添った母の生き方に苦労が偲ばれるように思います。
救いを求めるように新興宗教に入ってしまったので、発達障害を抱えた子供としてはそこから抜けて一般社会に染まり直して生きることが大変だったんですけど……なんとか今も生き延びております。ありがたいことです。

今までの私の困り事
思い返してみたら私は聞くことに大きな問題を抱えていたのでした。
小学校低学年の時には先生の授業の、例えば図工の時間にこういったものを作ろうといったものを聞くことができず、もしくは聴き続けることが出来ずに周りの人に要約してもらったり、中学校の学期ごとの試験で、今回はテスト用紙の裏面にも問題文があるので注意するようにという一言を聞き逃して結構な点数を逃した事もありました。
悪気があったわけでも問題行動を行いたいわけでもないのに、先生からは悪い事をしている奴は目を見て挨拶ができないと言われたり、朝起きられず遅刻をしてしまう事が止められなかったりしました。
考えてみたら普段そこそこ目を見て先生たちと話している同級生が、お酒を飲んで登校した時に、こちらには偉そうに圧力をかけていたのにその子たちのそれまでの兆候はわからなかったのでしょうか。なんて。
ちなみに今でも人の目を見て話すのは苦手です。ちくちく言われても直らなかった。

認知機能の弱さについて思うこと
人間は一人ひとり違うハードウェアの上に意識を持っています。与えられる刺激を全て取り込みながら成長し、また近いハードウェアを持った新しい世代を育てることになります。
この与えられる刺激というのは、幼い頃から名門で特色ある教育を受けたとか親からの虐待を受けた、逆に愛を感じて育ったというプラス方面でもマイナス方面でも関係はありません。
マイナスの刺激が悪いのでもなく、転んでどこか擦りむいて悲しかったとかは悲しい経験の取得ですが、二度目がないように、誰かがもっと大きな事故にならないように対策出来るようになる。悲しい思いをした経験が、長い目で見ると人生に活かされることが多くあります。
でもそれが活かされなかったら?をこの本を読んで考えました。


皮膚感覚で痛みを感じなかったら、自分にとって悪い事だとは感じずに同じことを繰り返すことになる。
聞く力や見る力が弱かったら気をつけていたとしても、兆候を発見できずに同じことを起こしてしまう可能性は高くなる。
もちろん感覚が鋭すぎても一般的な感覚の人の中では生きづらい。私はこういうことを考えるときに香水の調合師のことを考えます。ああいう過敏さ、少しの違いを嗅ぎ取れることを生業にしている人たちが、一般社会の中でどう溶け込んでいるのかとか。だけど街中の自動車や自転車のLEDライトへの過敏さでは、人の役に立つ事もなくただヘトヘトになること。逆に恐怖心をあまり感じないことを使って、命綱もなく危険な場所に立つ事でお金を稼ぐこと。
凸凹が利用してお金を稼げることもありますが、ある程度の過敏さの範囲内で収まっているというのは、生きていく上でとても大事だなと思うのですよね。

人は五感を通じて外からの情報を感じとります。その情報を整理し計画を立て、実行して結果を作り出すのに必要な能力が認知機能である。(p49)
見る力が弱いためのトラブルとして、友達が集まっていたところに仲間に入れてと近寄ったところ、みんながわーっと逃げ出してしまったという経験が載っていました。これはちょうど鬼ごっこをしていた場面に声をかけてしまったらしく、その部分が見えなかった本人からしてみたら原因もわからずにきついだろうと思います。

認知機能というのは、痴呆症で認知機能が落ちただとか、認知の歪みという単語で話の中に出てきたことはありましたが、今まではそれが具体的にどういうことを指すのかは分かっていなかった。
まず五感から情報を取り入れて、それを元にどうしてそうなったのかを想像し、行動して計画を立て直すこと。これが認知なんですね。
痴呆症の場合は、五感を正常に取り込んでいても想像の部分で間違ってしまい、物を取られるという想像から間違った行動をしてしまうことがある。
認知の歪みを治すという治療も、入ってくる情報が正しい物でなければ(五感と想像力が人並みに無ければ)、正しい結果を得られない。
認知の歪みがある、なんてよく聞きますけどね。その治療が効く人は一握りなんでしょう。少なくとも発達に凸凹がある人に、勧められるものでは無いんだなとわかりました。
人間は相手から送られるいろいろなサインで、自分は人と比べてどう言った違いがあるのかを知るので、そういった機会に恵まれなくて、愛着障害で同じような症状が出ている場合は効果的なのかも。

虐待は連鎖するのか
私は自分に虐待サバイバーの一面があると考えています。
同じような境遇の人が大人になった時に、みんなが虐待する様になるかと考えたら、そうは思わない。逆に愛をうけて育っても暴力的な人はいると思うんですよね。
虐待がある家庭というのは一部なので、大体の家庭は問題があるにしろ平和的に暮らしている。連鎖するという人の中には、連鎖が原因なら全く自分には関係がないと考える人もいる訳で。

だけど、一人ひとり違う肉体を持っていて、そこからの五感の鋭さ、鈍さ、想像力があるか、融通のきいた考え方ができるか、感情を抑えることができるか、が人によって違う訳です。
この社会はIQが100あることを前提として作られているのに、実際はそうではなく、半分以上の人はその枠からあぶれている。

虐待が起こりがちな家庭環境の状況として挙げられるものは
経済的な困難、不安定な就労、一人親家庭、DV、虐待者の心身の状態、夫婦間不和、親族近隣友人からの孤立、が上がっている。(10%未満の原因は省略)
これは発達障害の社会的な状況とも重なる部分があって
全部が全部そうではないものの、真面目に生きていてもそうなってしまった人が多い。
育児は予期できないことの繰り返しです。もし親に知的なハンディがあれば、パニックを起こす、赤ちゃんが嫌がっていても同じ方法を繰り返す、育児放棄して逃げてしまう、などの行動に出る可能性があるのです(p113)

私は虐待が世代を超えて繰り返されることがあるとしても、それがただ単に理想的な親の行動を知らない事が全てだとは思わないです。
五感の過敏さやカッとなりやすさ、発達障害の遺伝率は70%と言われていて
その体的な遺伝からの行動であった場合に、悪意からの行動だとか精神論で片付くものではない。
人間は行動を選ぶ時に、頭の中から色々な選択肢を選びとるものだと思うが、まずその選択肢が極端に少ない人がいる。
発達障害者が子育てをする場合には支援が必要です。完全に凸凹がない人間なんていないので、子供は社会で育てる事、保育園義務化などが必要なんじゃないかなんて考えたりする。
虐待児にも虐待する親にも支援が必要です。

そう考えていくと性格ってなんだろうとも思いました。
怒りっぽさやストレスの耐久量、DNAで大体のことが決まっていて、それは精神論では覆らない。性格がいいって何だろう。
それが具体的に掴める本にまた出会えるのを楽しみにしています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?