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お千鶴さん事件帖 第五話「因縁の玉」①/3 無料試し読み

第壱章 因縁の玉             
  
  店から中庭に出ると、辺りは陽に照らされて眩しかった。地表が揺らめいて見える。今日も暑い一日になりそうだなあと蝉の声を聴いていた。
 季節の移ろいは早いものだと仙吉は思う。大坂から江戸へ来て半年がたつ。
 大番頭さんから鍵を渡され、言われた通り「南総里見八犬伝」の冊子を十部取りに蔵の中へ入った。この書物は近頃よく売れているのだ。
 昨日仙吉が応対した旅支度の武士は店頭で物色してから、二冊を国元への土産として買い求めた。高価なものだがそれだけの価値あるものとして取引されることが嬉しく、この職についていることが仙吉の小さな自慢だった。
これだけ人気が出ると、重版や類版と言ってそっくり同じもの、また良く似たものを許可なく出版する輩が出てくる。その取り締まりも激しい。版木は本物である証であり収入の元だ。問屋間で売買されることもある。
 ここ銀花堂は、大坂心斎橋通りが本店の書物問屋である。仏教、歴史、伝記、暦、医学書、漢籍、教養書など難い書物をもっぱらに商っていたが、西鶴や近松門左衛門などの浮世草子と呼ばれる娯楽本が一気に普及した。さらに天明、寛政頃になると江戸の生んだ独自の「地本」と呼ばれる草双紙が人気を博した。
 今の売れ筋は「八犬伝」の馬琴、それに京伝、三馬、種彦といったところであった。
 江戸では日本橋、神田、馬喰町、浅草、深川、下谷、両国、芝神明前など書物問屋、地本問屋が半々で今や五十軒以上ある。
 そこで、銀花堂でも江戸に支店を出すこととなり、主夫婦の長男に託すこととなったいきさつを仙吉は聞いていた。
「転居することになり苦労をかける。でも仙吉にとってまたとない経験の場であるので励んでほしいんや。また、若い夫婦の助けになってやってくれ。期待してるで」と仙吉の肩をたたいた。大旦那様は送別の会を開いてくれた上に、まだ五年しか奉公していない未熟者に激励の言葉をくれた。両親と離れることは大きな不安であったが、あのときは飲み込んだ。
この機に丁稚から手代に昇進したことも、仙吉の気持ちをいくらか前向きにさせた。
 一番若い十五歳の仙吉をはじめ、奉公人のほとんどが本店からの者達だ。大旦那様にはたいへんな恩義があり、若夫婦を支えるために全力を尽くす覚悟で皆新天地にやって来た。
 仙吉は店から手習いへ通わせてもらっている。今まで文字を習う機会が無かったが、大旦那様のおかみさんからの進言だった。それが嬉しかったのもあるが、噂に聞く「八犬伝」を読みたいがために熱心に字を覚えようとしたのが大きい。未だにそろばんの方は、からきし駄目である。また本を間違えて手渡すなど、そそっかしいところがあるのが玉に傷だよと大番頭さんに言われる。
 江戸言葉は大坂とかなり違っていて早口でまくしたてられるように感じている。手習い塾でも、年下の仲間からは奇異な目で見られ、半年たった今は笑いを誘っている。
 ようやく深川界隈にも少しは慣れてきた。水の都は大坂も同様であり、水辺の景色に心が休まる。堀端に座り故郷の両親に宛て、便りを覚えたての文字で書いたりした。両親も字が読めないが、きっと誰かに頼んで読んでもらうだろう。文を誇りに思うはずだ。遠く離れていても気持ちを届けることができるなんて、と驚きだ。
 日がかなり傾いた頃、「裏庭の木戸口にある扉の調子が悪くて困るから、直しておくように」と中番頭さんに言われた。
店家屋の裏口から数歩ゆくと例の立派な蔵がある。蔵の前を通り過ぎて裏庭に出るとモッコクの大木があり、その枝の下を横切ると木戸口の扉があるのが見える。
 仙吉が屋外に出たところで、ひそひそ声が蔵の裏側から聞こえてきたので思わず耳を澄ました。
「ここに来たら、あかん。何べんも言うたやろ。後でゆっくり話そう」
 大番頭さんの低い声だ。
「……」女の人がすすり泣く声がしてくる。
 しかし、直に若い女は背中を見せて庭の木戸口へと向かい、大番頭さんは急いで店に戻って行った。
 まずいところを見てしまったような気がして隠れていたが、ここに引っ越して来てから大番頭さんはしょっちゅうこの裏口に来ていた。あの女が原因なのかしらんと一人納得したところへ、血相を変えた若旦那がやってきた。仙吉にはまるで気付かずに、裏へまわり何かを探している。雑草をかきわけ、眉間にしわを寄せたまま、はっと仙吉を認めると、
「雑草が酷いので、むしっといてんか。それからきれいに掃き清めとくんや。いいか」と、強い調子で言いつけながら、妙にあわてている様子だった。
「いったい全体どうなっているんやろ。帰ったのか、あいつは」
 いつになく激しい口調で独り言を言っていた。さっきの泣いている女の人と関係があるのかなと思ったが、知らないふりをした。
 扉の修理をしないといけないのだけれども、やれと言われた方を先にやっておくかと思い雑草をざっと抜いた。
 その間、蔵の中でコトリと物音がしたような気がした。まさかと思い、蔵に向かい扉を引いてみたが開かなかったので、やっぱり気のせいだと考え直して戻った。
 蔵はその性質上、中から鍵はかけられない。小さな明り取り窓が奥の壁に面して左右に二つあるだけなので薄暗いが、蝋燭の火などは決して持ち込んではならない。火事の原因になるからだ。
 店が開いている間は本の出し入れが頻繁にあるので、蔵は簡易鍵だけで開くようになっている。夜間下ろす本式の錠前は開けるのに工夫がいるし、時間がかかる。簡易鍵は若旦那、大番頭さん、大旦那のおかみさんの三人が持っていた。
 日中は、ここの大旦那様のおかみさんが離れの座敷から様子をいつも伺っているので安心だ。今もうっすら障子が空いていてこちらを見ている気配がする。おかみさんは若い息子夫婦が心配で江戸に下ったが、商いが軌道に乗れば帰るつもりでいるそうだ。
 仙吉はさっさと落ち葉を掃き出して集め、言われたように綺麗にした。
それから裏木戸の扉の様子を見てみると、これは蝶番を釘で留めないといけないことがわかり店内の大工道具を取りに再び戻らなければならなかった。蒸し暑い中、外で作業するのはつらいなと気が沈んだ。
 店では若旦那がこれから出かけるということで、玄関先の土間で若おかみが絽の長羽織の裾のシワを軽くはたいて直したりしていたが、いつもと何だか様子が違って見えた。二人とも言葉をかわさないで、暗い表情だった。なんだかあれこれと忙しく一日が過ぎるのだ。皆の機嫌のよいときもあれば、悪いときもあるのでさほど気にしない。
 その夕刻いつものように扉を開けた状態で、中の本の様子をざっと見まわした。
 戸から向かって左右の壁に低い足のある机が壁面いっぱいに並べられ、真ん中に左右を仕切るように縦にも長い机がある。その上にたくさんの高価な書物や、それよりも更に大事な木箱にしまわれた版木などが所狭しと積まれている。正面奥の左右の壁には床に直接平積みされた本が高く積まれている。広さは普通の座敷よりやや細長く奥に広がり十畳ほどはある。毎日見慣れた場所なので特別注意を払うことなどない。どこにどの本が積まれてあるのかよく知っているので、さほど念入りには見ない。蔵の錠前を厳重に閉めた後、振り返るとおかみさんが後ろに立っていることに気づいた。
「ご苦労さんやねえ。引っ越してきて困ったことはあれへんかい?」
 と、珍しく手代である仙吉に声をかけて労ってくれた。
「いつも通りです、有難うございます」とうれしくて恐縮した。
 ところが翌朝のこと、蔵はいつもと全く違っていた。
 手渡された鍵で朝一番の蔵を開け、観音開きの戸を開くなり酷い悪臭で思わず袂で鼻を覆った。
 いったい何なのかと、恐る恐る数歩進んだところで仙吉はがくんと腰が抜けたようになり、辺りの本で体を支えようと思わず手近の本をつかんだ。たくさんの本が床に滑り落ち、バサバサと大きな音をたてた。仙吉は息が止まったようになり声が全く出ない。
 胸に短刀の刺さったまま、小柄な、見たことのない男が蔵の奥で体を丸め倒れている。床には血が敷き詰められ、死んでいるのは明らかだった。
大事な本が汚れてはいけないと頭をかすめはしたが、それどころではなかった。
 知らせに店に戻ろうとするが、腰が抜けて立てない。はいつくばるようにして、なんとか外に出た。本を踏みつけにしてきたような気がする、と振り返ったときやっと叫ぶことができた。
「誰か、誰か来て。中で人が死んではる……」
 その声で、おかみさんがいち早く駆け付けた。仙吉が指さす奥へと歩み寄ると、「あーっ」とつんざくように叫んだ声が響き渡った。また、本がバサバサと散らばったような音もする。きっと己と同じように怖くて動けなくなっているんだなと仙吉は思った。
 店の若旦那さんが血相を変えて現れ、蔵の中の母親をかかえるようにして、庭に引き出した。
 それから若旦那さんの姿を覗き込むようにして目で追った。死体にかぶさるように見下ろして、さすがに怖かったのだろう、
「おお!」と派手に仰け反った。それから気を取り直して大声で言った。
「すぐにお役人さんに知らせてんか」
 表に出る前にきょとんとした若おかみさんと開店の準備に忙しい大番頭さんに、異変はあちらと指さした。
 すると大番頭さんは、なぜか、
「また、来てしもたんか?」と大慌てで蔵に向かって行った。
 わからないことばかりが立て続けに起こる。大変なことになったと手の震えが止まらないまま番所に向かって無我夢中で駆けて行った。開店前の支度をする多くの店の活気が大通りにはみなぎっていたが、まるで見知らぬ横町に見えた。

     (一)

 千鶴の家の前には、昨日買ったばかりの竹籠がでんと置かれていた。中に入った風鈴付きのほおずきが、赤々としている。覗き込むと浅草寺の喧騒が聞こえてきそうだった。
 お日様がギラギラとしているのを掌で遮りながら見上げる。
「いいお天気だこと」と声に出した。雲一つない。
 出かける前に、乾燥に弱いほおずきに柄杓で水を少し足しておいた。
 浅草寺のほおずき市は芝の愛宕神社で四万六千日の功徳を謳って大繁盛したので、浅草寺でも始まったとか。
 四万六千日と言えば百二十六年分ほどにあたり一生の功徳にあたるということから大勢が押し寄せた。現金なものだと知りながら市の賑わいを楽しみに千鶴も毎年出かけるのだった。長の無沙汰をしていた知り合いと寺でばったり出くわしたりするのも一興。
 岡っ引の御用を務める亭主の橋蔵も、
「毎年おんなじだ」
 と、言いながらも露店を冷やかし歩くのは嫌いではなさそうである。
「アッ、まだ生きてたか?」
「親分さんもしぶといね」
「おれはまだわけ(若)えが、親父さんの顔はよーく見とかないと来年会えねえかもしれねえ」
「ひでえなあ。四万六千日は大丈夫でい」
 露天商とふざけ合ったりして、はしゃいでいた。昨日は同心の檜山が珍しいことに同行したので、ことの他、愉快そうだった。
 檜山は身分の分け隔てなく接してくる風変わりな同心である。気が弱そうに見えるのに、剣の使い手であることがつい最近わかった。
「親分さんは、お口が悪い」とにんまりしていた。逆に檜山は丁寧すぎる物言いである。
 檜山は千鶴より六歳年上だが、浮いた話一つ無い独り身である。優しすぎるからではないかと勝手に思っているのだが、気になった言葉があった。
「このほおずきと私は似ているように思うのです。小さい実を大きく見せるように偽っているところなど……」
 千鶴は今日も喉の奥にひっかかっているような、しっくりとしないものをを感じるのだ。檜山は大きく見せるどころか、謙虚が小袖を着ているような男にしか見えない。
 話を変えてみた。
「中身は確かにスカスカですけれども、煎じて飲むと薬になりますでしょう? 役に立つ奴です」
「そうらしいな。子供の癇の虫やら、大人の癪にも効くとか」橋蔵も話に乗る。
「源頼朝が奥州征伐の帰りに浅草で軍勢を休ませた折、日射病で倒れた兵士達にほおずきの赤い実を食べさせると元気になったことから、ほおずき市が立つようになったという話を何かで読んだことがあります」
 蘊蓄を静かに語るいつもの檜山に戻っていた。檜山の数少ない道楽の一つは書物である。

 千鶴は昼過ぎに片手に手ぬぐいを握りしめて、常日頃親しくしている由の家を訪ねた。深川六軒堀から目と鼻の先、本所にある。
「手習い塾」と書かれた真新しい看板がかかっている。戸口に歩み寄ると、数人がいろはを一斉に唱えている声が聞こえた。あれが、最後のお浚いだ。
 子供たちの顔が見たくて、そっと腰高障子を開ける。
 七歳ぐらいから十五歳ぐらいまでの様々な子らが今は十五人ほどいた。十八畳の座敷に稽古机が二十台ぎっしり並んでいる。それぞれが行儀よく坐り課題のものを机の上に広げていた。
 入門の際に母親が机、硯、筆墨を持ち込む。束修として、一朱か二朱の入門料や、菓子折りや扇子などを持参する者もあった。貧しい者はできる範囲でかまわないとするのが深川の通例だ。由も貧富など気にしないのはもちろん、どの子にも熱心に接するという噂が早くも広まった。そのせいか引っ越して間もないというのに、意外に盛況なので驚いた。
 千鶴は手が空いている時には由の手習いの手伝いに行く。今日はたくさん作った団子のおやつを持参していた。
 腰高障子をそっと開け、二、三歩入ったところで自然と笑みがこぼれる。子らが賢明に学んでいる姿ほど気持ちのいい光景はないと感心して眺めた。
その中の十歳くらいの男子が、大声で叫んだ。
「仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌」
「仁吉さん、よく知ってるわねえ」
 由が驚いて言った。
「どうゆう意味?」と、仁吉が真顔で聞いたので、皆が一斉にゲラゲラ笑った。
「その中の仁吉さんの仁という文字は特にいい文字ですよ。人を慈しむという意味」
 するとさっきよりも大きな笑い声。仁吉は赤い顔をしている。
「恥ずかしいことではありませんよ。人として一番大切なこと。それぞれ八つの文字が数珠の玉に刻まれているというのが、南総里見八犬伝という書物に書かれています。ひとつずつ覚えましょうかねえ」
 墨で大きく仁の字を書いて壁に貼った。
 女子と男子の坐る場所は分かれているが、分け隔てなく学べる所はここぐらいなものだ。
「その、ご本知ってる。仙吉兄ちゃんが好きなんだって」
 一番小さな、お栄が得意げに話した。
「そうね。楽しい本が読みたいという欲があると、字を覚えるのがとっても早いの」
 ここらで休憩をいれましょうか、と由は千鶴に目で合図した。
「はーい、みなさん。草餅の団子ですよ。たんと召し上がれ」
 わーっと集まる様子を見て千鶴と由が微笑み合った。
「そう言えば、今日は仙吉さんがいませんね」
 千鶴は子らを見渡して言った。
「珍しいこと、それはそれは熱心ですから。ここに、仙吉さん用にと続きの貸本を借りてあるんです。まさか仙吉さんの勤め先のものを読むわけにはいきませんから。どんどん先が続くので追いつきゃあしません。お千鶴さん、何巻までお読みですか」
 何冊かあるうちの八犬伝を取り上げて、由はもう頁を繰っている。
「かなり読みましたよ……」どれどれっと本を覗きながら続けた。
「それにしても、まだまだのようです、お楽しみは続くんですねー。八犬士がなかなか揃わないはず」
「たくさん売れていますから引き延ばしていますよ。私も不思議な玉って見てみたい。女形のように美しい犬士は登場しますが、女は妖しい敵方にしか出てきません。そこが残念」
「お由さんは意外に勇ましいから美しい玉を手にして犬士になりたいのでしょう? 読本としてはこんなに面白いものはないですね。先がどうなるのか、楽しみで仕方がない」
「ところで、犬を飼ったことがありますか?」
「猫も犬も無いんです、怖い。遠くから見ているのは好きなのですが」
 これを聞いていた子らが、また一斉に笑った。
「千鶴おばちゃんの怖がり」
「怖がり」の大合唱。
「はいはい、お千鶴さんには団子のお礼を言いましょう」
「はーい、御馳走さまでした」
 由の言うことには、皆たいへん聞き分けがよいのだ。師匠は流石だと思う。
 手習い塾で由が教えるのは、「いろは」から始まってそれぞれの職や必要に応じて、個別に違っている。数字、名頭と言って姓の一覧、村の名前一覧・国の名前一覧、等は基礎的なもの。諸証文、用文章、諸往来、法規類など、商いに直ぐに必要となる実用的なもの。稀に漢籍(四書・五経)まで進む者などもいるので幅広く教える。
 女の師匠の方が数は少ないが、いるにはいた。さらに芸事の花や茶や琴を教える師匠もいる。由も琴を嗜む。庶民にも熱心に学ぶ者が大勢いるのだ。

     (二)

 夕方近く長屋に戻った千鶴は、仙吉が家の前で待っているのを見て驚いた。またひょろりと背が伸びたように感じた。小袖に前掛け姿が板についてきた。
「若おかみさんが、しょっ引かれてしまったんです。旦那様も一緒に番屋へ」
「いったいどうしたって言うの? どうぞ中にお入りなさいな」
 と、腰高障子を開き招き入れた。仙吉は気が動転しているのか、つっかかって転びかけた。千鶴は茶の間をさっと片付け、仙吉を部屋に上げる。
「実は今朝、蔵の中に死体があって。私は朝晩、例の厳重な蔵の錠前の開け閉めを担当させてもろてます。鍵は旦那様がお持ちです。夜用の鍵はたった一つです。お留守の時は若おかみさんが鍵当番ですから、正直にそれを同心の方にお話ししたところ、ほな、若おかみしか下手人はおらへんってことに。私のせいでしょう? どうしたらいいかと他に相談する人もいなくて、お千鶴さんなら橋蔵さんにでも口添えしてもらわれへんやろかとやって来ました」
「それは大変です。そんなに心配されている若おかみさんはさぞかし慕われているんですね」
「はい……」
「誰が亡くなったの?」
「私は見たことがない男でした。なんというか、すさんだ身なりに、顔に傷があったような。若夫婦、大旦那のおかみさんや店の者も口々に知らんと言っていました」
 知らない男らしいが、それは後で岡っ引の御用を務めている亭主に聞くこととして、死体の発見者である仙吉に事件前後の様子を詳しく聞いてみようと思った。
「死体のそれはそれは、むごたらしいことと言ったら。そんなにじっくりと見られたもんじゃない。今でも胸がむかむかしてきます」
 思い出すとまた、手が小刻みに震えるようだった。もともと色白な顔がさらに青ざめて見える。
「そうね。嫌なこと体験したけど、見つけたときのことを詳しく教えてちょうだいな。お調べに必要ですから。落ち着いてね、今お茶をあげる」
 千鶴は、お勝手のお団子と一緒に茶を入れて戻った。
「夕七つ(五時頃)には店を閉め、蔵の鍵をいつもより早く締めました。旦那様が昨日は月に一度の囲碁の会で引き続き酒宴も催されますので、その晩は皆さまお泊りになるのです。ですから、七つ過ぎにはお出かけになり夜は留守でした。今朝は朝五つ半(八時頃)に若おかみさんから鍵を預かって開けにいきました。いつもの日課です。そしたらえらいことになっていまして。もう驚いたのなんのって」
「それは、災難でした。昨夕の戸締りは何の異変もなかったのですか?」
「はい、それはもう。ざっと見てしっかり施錠しました」
「閉ざされた中で殺められた、胸を刺されたままで……奇妙ね。殺められた人も下手人も蔵の中に入ることができて、しかも下手人は鍵をかけて煙のように消えた」
「お千鶴さんもご存知のように、蔵独特の錠前はちょっとやそっとでは破れないようにできています。瓦版の格好のネタである盗賊にしても、母屋にある鍵をまず奪ってから蔵を開けると書いてありますから」
「そうよね。八方ふさがり。明り取り窓はどれくらいの大きさ?」
「三寸(十センチ)四方のものが二か所」
「それはまた、ちっちゃい。猫なら通れるかしら。」
「いや、あの高さに飛び乗るのは猫でも無理かなあと思います。窓の周りに飛び移る庭木などもありませんから」
「下手猫じゃあなさそうね……」
 仙吉の顔が少し笑みを取り戻しそうに見え、少しほっとした。
「若おかみはお藤さんでしたね。お藤さんは鍵を無くしたとかそんなことは無かったんでしょう?」
「お役人さんから聞かれているときに、帯の間にあります、と答えていました」
「そもそも、鍵が無いと仏さんも下手人も入れないわけですから、それで若おかみさんだということになったのでしょう」
「若おかみさんはとてもおっとりとした良い方で、そんな殺害だなんて有り得ない」
 仙吉は大きく手を横に振りながら、訴えた。
 そうこうするうちに、橋蔵と檜山が共に帰ってきた。
「仙吉さんだね。お千鶴から塾のこと聞いているよ。とてもがんばり屋さんだってな。檜山様が話を聞きたがっておられて、ちょうど良かった」
 二人に千鶴は今までの話を、まとめて伝えてから、茶の用意をしに勝手場へ行った。
「仙吉さん、この数珠を見たことがありますか?」
 と檜山が殺害の場で拾ったという水晶の数珠を見せた。
 水晶は仏教で言う七宝の一つであらゆる苦難を遠ざける、と尊ばれているのだ。
「大旦那さんのおかみさんのものです。よく見かけましたから」
「蔵の中に落ちていても不思議はないかもしれませんがね」と言いながら、また大事そうに懐に仕舞ったのを見て仙吉が怪訝そうな顔をした。
「蔵の中におかみさんが入ることは無いと思います。商いの現場には一切口出しは、されませんから。蔵の見張り番と若旦那様の相談役に徹してはります」
「そうですか。女の力であの犯行は難しいと考えられますが、記しておきましょう。片岡さんがどうしてもお藤さんを引っ張ると言い張って聞かなかったのですが、私はお藤さんの犯行とするのは難しいと考えています。ところで仙吉さんは店の二階に住み込みですね?」
「そうです」
「夜中に物音か何か不審なことは無かった?」
「昨日はいろいろと忙しかったから、晩はぐっすりと眠ってしまいました」
「手代はこき使われるからなあ」
 橋蔵が助け舟を出した。すると続けて言った。
「たいがいは目が覚めない性分です。それこそ、離れのおかみさんが真っ先に聞きつけはるのではないでしょうか」
 檜山が頷きながら、ちらりと橋蔵を見る。
「仙吉さん、江戸に来て間もない方々だから、お店内の人達を詳しく教えてもらいてえんだが」橋蔵がにじり寄った。
 仙吉は知っている限りのことをそれぞれの人物を思い浮かべるような感じでゆっくり述べた。
 大旦那の清十郎は四十六歳、背は低いが割腹がよい。一代で書物問屋を築いた。先代は医者だったので、医学書などはもちろん他の書物も相当集めて保管していた。
 大旦那のおかみさん、志乃は四十五歳。裕福な大店の娘でかなりの財産を夫の新しい事業に費やした。息子を溺愛している。嫁の藤ともうまくいっているように見える。
 跡取りの若旦那、長太郎は二十五歳。商人だが幼い時から文武両道の教えをよく学んだ。父親の影で小さくなっていたが、江戸で張り切りだした。まだ子はいない。普段はおだやかなのだが、些細ななことで短気な所は、お坊ちゃん育ちのせいだと奉公人が噂している。
 若おかみの藤は二十一歳。清十郎と亡き父親が親しい間柄で婚儀が決まった。仲睦まじい様子である。仙吉などの奉公人にもやさしく接してくれる良くできた人だと顔を赤らめながら言い張った。嫁入りしてから五年になる。
 大番頭の誠助さんは唯一夫婦で江戸にやって来た。仙吉にとっては怖い存在。長く働いていて、大旦那からの信頼も厚い。そのうちに店子を出してもらえるという話も聞いている。
 その他中番頭、番頭、丁稚等の奉公人は仙吉を入れて四人。
 千鶴は仙吉の仕事ぶりを詳しく聞きたかったが、余計な口を出すなという橋蔵の視線に、しぶしぶ次の機会を待った。
「亡くなった人物がどこの誰なのかまずもってわからねえ。だからこれらの人物との関わりがさっぱりわからねえです」と、檜山に橋蔵がつぶやいた。
「盗人の線も考えています」
 茶を振る舞う千鶴の顔をちらりと見て檜山が応えた。
「あるいは、店の物にケチをつけに来たとか、ゆすりの類? から、こうなったのかもしれません」
 ガラガラっと腰高障子の開く音と共に、
「お千鶴ちゃんはいるかな」と医者の寛西が入ってきた。
 一斉に戸口に顔を向ける。
「おお、皆お揃いだ」大げさに仰け反ってみせる。町医者の寛西はいつもの薬箱を手にし、さすがに暑いのか、上着の十徳は羽織っていなかった。檜山の命でお上の御用を手伝っている。
「先ほどはお疲れ様でした」橋蔵がまず声をかけた。
「いやいや、腐敗が進んでおった。この暑さだし亡くなった時刻を特定するのは難しいが、前日つまり夜中までではあろう。ただ死体をどこかに動かした形跡は無さそうだから、事件の場はやはり鍵のかかった蔵の中じゃ。奇妙だがな」
 檜山と橋蔵は神妙に頷いた。二人が何やらこそこそと打ち合わせをしている隙に寛西を勝手場に引き寄せた。
「何かわたしに御用でしたか?」
「そうそう、うちに長年来てくれてた貸本屋がな、けっこうな齢で、いよいよ具合が悪くなって寝込んだ。さっき一人住まいだから応診がてら、行ってきたんだ。すっかり弱っとった。医者に治せるものはほんのわずかだと痛感する」
「寿命でしょうから、こればっかりは……。でも寛西先生のことだからおいしいもんでも持って行ったんでしょう」
「はは。こう暑くちゃな食欲も無かろうて。暑気払いに井戸でよく冷やしたみりんを持って行ってやった。おいしいおいしいって飲んでくれたわ」
「そうそう、長屋の皆さんも良く効くって言ってます」
「少しでも何か口にしないとな」
「先生のお気持ちが何よりの薬ですねえ」
「それで、お千鶴さんとこに来る貸本屋に、うちにも顔を出してくれるように頼んでほしいんじゃが」
「はい、お安い御用です。定次さんという人で、よく相手の好みを察してくれますから、良い本を紹介してくれますよ」
「じゃあ頼んだよ」
 と言うなり踵を返して、あっという間に出て行った。丸い背中に苦労を背負いこんでいるというのに、けろっとしているのが寛西のいいところだ。

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