何かを書き連ねるということ
基本的にものを書くのが好きな人間なので、TwitterやLINEで何かと呟いたり誰かと中身のない話をしたりしがち。
でも文字数のかかる仰々しいこと(ここで言う仰々しい、というのは"仰々しく見せた中身のないくだらないこと"の意)や真面目な話は案外書いたりしないものだな、と思い立ったが吉日、そのままnoteを始めたわけです。
これを見に来ている人なら実に8割の方が知っている事だと思いますが、僕はインターネット、ひいてはSNSが特に下手くそなのだけれど、ある時を境に下書きに貯めることを覚えて、何かと人にトゲが向いてしまうことはできるだけツイートをしないよう心掛けるようになった。
理由は、様々なものに責任が付きまとうようになったから。と言うだけのことである。
趣味も社会と同じで、物事を一定以上、それが時間なのか地位なのか経験なのか、何を物差しとするかはわからないけれど、そのナニカが一定を超えた時に趣味であっても大きな責任が付きまとうようになる。そんなナニカを最近強く感じるようになった。
おかげで前に比べれば幾分かまともな(当社比)SNSライフを送るようになったのでは?と毎日自画自賛の日々である。自分偉い。僕偉い。天才。
自分の機嫌は自分で取るしかない。世知辛い。
とどのつまり何かを書き連ねることにはどんなことでも責任がつきまとう事なのだという話がしたかったのです。それが趣味であっても、たとえフォロワー3人の鍵垢であっても、変わることはなく。ただその重さはそれぞれのナニカ次第であるということです。責任が0になることは無い。自分という責任がつきまとうんですから。
そんなことを頭の片隅、どころか脳内を飛び出して小指の先ほど、爪の先ほどに小さく考えながら毎日SNSを眺めています。
哲学者ではないので、深く物事を思考することはあまりしませんが、こうしてかしこまった形で物事を書き連ねると、自分の脳内を整理して書き出せる。いいですね、これ。
これからも気が向いた時に適当なことを書き連ねていこうかなと思います。もちろん責任がつきまとう上でね。
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