姉妹間の比較競争を手放すには

姉妹というのは、同じ親に生まれて、同じ環境に育って、いろいろ比較され、自分たちも比較しながら育つので、比較競争が生じやすい。

でも、比較競争を続けていても、終わりが見えない。

私が比較競争から脱出するために、こうしたらいいんじゃないか、と感じたことを書いてみようと思う。

まず、距離をとる。
姉妹仲良くできればいいが、比較競争が気持ちの中でもどうしても生じてしまうなら、まず、距離をとるのがいいと思う。
物理的、心理的両面の距離をとるのだが、心理的距離をとるためには、物理的に離れていることが一番だろうと思う。
まず、あまり会わない。あまり交流しない。
情報のやり取りをしない。
相手のことを知らなければ、競争のしようもない。

そして、自分の人生を楽しむ。
以上。

これしかないのではないか。

人は、同じものだと思うから、競争する。
そもそも全く違う人間で、違うものだという認識をする、というのも大事だと思う。

主義主張も違うし、好みも性格も違う。
得意不得意も違うし、大人になった今置かれた環境も違う。
もしも似てるように見えても、違いを見ていく。

そして、自分の好きなことを追求していく。

実際のところ、優劣という価値観にいるときに、比較競争が生まれる。
そして、何のために競争してるかというと、突き詰めると、親の愛を奪い合っているんだと思う。

親の愛、という限られた(ように見える)ものを奪い合い、自分の方が優れている、というアピールが生まれる。
そして、親の愛、という限られたものを得るために、ずっと比較競争を“気づかないうちに“続けてしまう。

なんだけれど、そもそも親の愛を奪い合わなくていいんじゃないか、と。
私たち、実は親の愛よりもっとズーーー〜〜っと広い、愛の宇宙の中にいるんじゃないですかと。いや、突然怪しいよね、愛の宇宙って。
というか、親の愛って、不完全、未熟な二人の人間のくれるかもしれないものじゃない?小さい頃は、それが死活問題て、自分の全てになっちゃうから、仕方ないんだけど、実は、もっと世界には大きな愛があって、というか、本当の愛というものがあるならば、それは有限ではなく、無限ではないですか?と思うのだけど…。

有限なものを奪い合うから、競争になってしまうのであって、無限のものの中にいるのならば、そこに比較競争して、奪い合う必要がないのでは?

それと同時発生的に、自分が“優“も“劣“もない存在で、何かができてるから優で、何かができないから劣とか、そういう条件ではなく、存在として、そのままでいい自分なんだって気づけば、比較競争する意味自体が、全くなくなっていくというか。

実際、親の愛が得られないっていうことは、あると思うし、思ったような愛を親がくれないことは、多々あると思う。
なぜなら、親も非常に未熟不完全な人間で、それぞれの課題を抱えているから。

なので、ある時点で、思ったような愛を親からもらうのは諦めるというか、それはそれで仕方ないというか。
それと同時に、その思ったような愛を、すでに自分が自分で与えれる人間に、自分がなっていることに、気づける、この二つは、同時並行的に起こるのではないかな?と思う。

そうなると、気づく前にはとても難しかった、“相手の立場を理解する“ということが、少しずつできるようになる瞬間がある気もする。




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