「先住民」という名のメタファー

メタファーとは、他人事を自分事に変換させられるツールである。

例えば、「先住民」という言葉に出会ったとき、どのようなイメージを持つだろう。

とある本で、先住民とは
「土地を追われたり、言語文化を否定されて同化を強要されたり、生活手段を失って貧困に陥るなどの共通の経験をしている人々のことを指す」と書かれていた。
「先住民」をとあるメタファーとした時の、自らを振り返ってみる。

「土地を追われた」
期待と不安の入り混じる、初めての大学登校日。我先にと上級生がサークルのフライヤーを配る中、私は一枚ももらえなかった。気がつけばサークル内ではBBA三大巨頭の一角となり、気まぐれに誘う友達も数人しかいなくなっていた。

「言語文化を否定されて同化を強要された」
興味に偏りがある私は特定の人としか会話が成立しない。気がつけば、自分の周りにはキラキラ大学生は一人もおらず、彼らの本棚には三島由紀夫、遠藤周作、村上春樹、哲学/文化/人類学系の本や学術書 etc。今の所、本屋大賞を辻村深月の文字を見たことはない。

「生活手段を失って貧困に陥る」
アルバイトをしては生活費として消えてゆき、晩御飯に納豆と豆腐ばかり食べていたらルームメイトに「出家?」と言われる始末。
さらに自らの価値観を大切にしすぎるがために就活意欲を全く見出せない娘を前に、両親の脳内は「卒業」と「就職」の文字で埋め尽くされていた。

もちろん私が「先住民」だと認識するのは暴力だ。彼らには彼らの時間があり、歴史がある。
でも、遠いものを近く感じることができるのが「メタファー」の強みではないだろうか。
今回の話で言えば、先住民ではない私でも、決して身近とは言えない「先住民」という言葉を前よりも少し身近に感じられるようになってくる。

世の中リアリティのないものや受け入れがたいものなんて星の数ほどある。
だからこそ、人よりも少したくさん自分とつながる瞬間が見えるようになったら、
その分、誰かの時間ではなく、自分の時間を過ごしていけるのではないかと思う。

余談だが、
数少ない友達は私が欲しいときはいつでも居心地の良い場所を作ってくれるし、
最近の色々な話がダンス・ダンス・ダンスの一場面に収束しているし、
ご縁もあって、今では週4で働きに行くオフィスができている。
うまい具合に神様は私のことを甘やかしてくるので、なかなか世を捨てようと言う決意は固まらない。

逃げたくなる現実なんてたくさんあるように思うけど、
私よりも辛い思いをしている人はたくさんいるのも事実だし。
甘えるばかりじゃなくて、生死の危機にさらされている人たちの前でも恥じずに対等に話ができるよう、今できることをサボらずにやっていきたいものだ。