「取り急ぎドゥルーズをまとめる」という暴挙を世界は許してくれるでしょうか?

会社の人と話していた時に「ドゥルーズ、ガタリを読んでみたら?」と言われた。実は私、在学中に原書を手にとってみたことがあるのだが、無知無知な脳みそに収まるわけもなく、圧倒的挫折を決めていた。当時の記憶が蘇り、反射的にうめき声をあげてしまった上司に対してまずはお詫び申し上げたい。

後日友人からとある入門書を勧めてもらったので、めちゃくちゃライトにまとめてみようと思う。著者の視点に加え、粗雑な私の視点が介入していることから本来のドゥルーズの姿とは大きくかけ離れているかもしれないが、ご容赦いただきたい。

▶︎読んだ本
檜垣立哉(2019)『ドゥルーズ ー解けない問いを生きるー』ちくま学芸文庫

ドゥルーズとは

ジル・ドゥルーズは20世紀のフランス現代哲学を代表する哲学者の一人。彼は深みのある根拠を嫌い、永遠の真理という偶像を破壊しようとした。彼の思考の基盤には差異、多様性、異質性、文化などの要素がアンリ・ベルクソン(19世紀後半〜20世紀前半を代表するフランス人哲学者の一人)の<生の哲学>議論を受け継ぐことで形成されている。彼にとっては新たなものが産出されていく現場こそがリアルな実在であった。

*生の哲学:認識や真理よりも、衝動や情動の側から世界のリアリティーや成り立ちを捉えていく発想

自然を捉える科学は、(中略)そのつど部分的に生まれては壊れていき、予測不可能な動きをなし、状況に応じてローカルかつ戦略的に自己組織化を遂げる生命という視角から、この世界に切り込む知のあり方を見出しつつある。 P.32

世界の変容

ドゥルーズの考え方に触れる前に、学者や思想家たちを始め、人々の考え方がどのように変わってきたのかまとめる。

▶︎17世紀(カント以前)
・問いを解く基盤は「神」にあった

▶︎18世紀以降(近代)
・「人間学」の時代
・世界の中心としての「神」はすでに過ぎ去り、「人間」が神の位置にとってかわった。
・しかし「人間」とは生物学的・環境的、歴史的に作り出されたものである。問いを解くための基盤に「人間」をおいたことで、「人間」は全てを統括するような装置でありながら具体的な存在者であるという、矛盾を抱える。

▶︎20世紀のはじめ
・根拠がないという主張が、失われた基盤へのノスタルジーをかきたてる。
・問いが解けないという焦燥感が広がる。

▶︎20世紀後半
・問いが解けないからこそ、そこで新たに何ができるのかを模索する、前向きな賭けがなされる。
ex) 70年代以降の後期資本主義社会では、根拠のなさを一種の産出力へと転化させていく。

基盤の喪失による焦燥感は人間を中心に置いた20世紀頃から始まり、後期資本主義社会においては「理想的な生き方」イメージをつくりあげることで社会における「人間の正しさ」が個人レベルで共有されるようになった。しかし、現在では既存の「正しさ」が崩壊し、既存のナラティブが機能しなくなっている。人間は再び世界の根拠を失い、焦燥感が姿を新たにして立ち現れているように思う。

未決定な世界=卵

卵とは、多様なかたちをとるために、それ自身はかたちをなしていない力のかたまりのことであり、世界の原型であると彼はいう。表面的には均質的にもみえる卵の内部には、さまざまな分化に向かう力線に溢れている。

彼にとって世界を生きるということは、卵の未決定性を生き抜いていくことを意味する。未決定な場において、何が生まれるのかを事前に描くことは意味をなさない。何故ならば、何が生まれているのかという現実的なものは、生成の現場をあとから振り返って初めて取り出されるものだからだ。未決定な世界が内包するのは潜在性であり、つまりそれは流れのリアリティが生まれていることを意味する。潜在性を現実化させてしまえば、そのあり方は変容してしまうのである。
世界は何かしらの<かたち>あるものでつくられているが、そもそも<かたち>とは暫定的な結果としてしか与えられない。力は未決定的にうごめき、とある<かたち>へ向かって集約されていくが、その過程を結果である<かたち>の側から取り押さえることは不可能なのだ。<かたち>は世界が成立する流れの中で「現在」がその流れを停止することで認識できる断面でしかない。

未決定性を捉えるための「理念」と「内在」

ドゥルーズは「理念」「内在」という哲学の言葉を用いながら、一般的な意味とは違った定義を提示する。

理念とは、一般的には問いの回答が書き込まれた特権的な領域として描かれることが多い。しかし彼は、理念とは特権的な場面を壊しながら、すべてをリアルな流れのなかに解消させるものと定義する。未決定な世界において、理念を経験や知覚の見えない隙間として捉えているのだ。

内在とは、一般的には精神的なもの、意識的なもの、主観的なものへの内在を想像させる。しかし彼は、内在は特権的ではあるが自己充足的な内部なるものを崩しながら、別のリアリティーの位相を探るものとして定義する。

彼は想定された根拠を捨て去り、どこに向かうかもわからない生成の流れの内側に入り込みながら言葉を紡いでいこうとした。

「理念」的で「内在」的な哲学というドゥルーズの発想が何を示すのか。
それは<かたち>あるこの世界のなりたちを探るために、<かたち>を生み出す見えない力(流れ)へと、我々の視線の向きを変える指標である。


生成に入り込む方法論=<無限の速度での俯瞰>

改めて、生成とは、卵から何かが生じてくるような、新しさの生成の現場である。そしてこれこそがドゥルーズにとってリアルなものである。そこで彼は、自己を根拠化する定点を設定することなしに、生成の流れに生のまま立ち到ろうとした。世界を無限の速度で駆け巡り、その全てを一望に収める俯瞰を可能とするのが哲学であり、それゆえドゥルーズは哲学の言葉を用いながら、一般的な哲学用語の意味とは異なる意味を付与したのだ。
生成をあらわにするためには、分割されることのない流れの中に身を置き、無限に生まれる知覚の隙間に即応することが必要なのである。

*ドゥルーズは世界を捉える時に、世界を正しく認識する意識の在り方から検討を始める現象学に対して批判的な態度を表していた。

システムに規定されない個体を可能とするシステム

どんなに細かく分化がなされていたとしても、個体が区分の中からはみ出してしまうことは珍しくない。個体とは、リアルな未決定性を表現するものであり、総体として見た時に分散的で多様なのである。

そんな多様な個体を統括するために、システムが存在する。多くの場合、これは心的トラウマや性的欲望、経済的下部構造や遺伝子戦略など、いくつかの要素を決定項とする、同一の思考に基づいた考え方となる。しかし、ここで忘れてはならないのが、システム自体もまた、未決定的な生成の現場なのである。

個体はただ多様なのではなく、システムの力を引き受け、それを独自のあり方で表現し、その表現においてシステムの存在を担うことで意義を持つ。システムにおける個体の意義を見い出すためには、適切に問題を設定し、未決定性のなかから暫定的な<かたち>へと向かっていく出来事の論理の中で、分化の準備が生まれる場面が必要不可欠となる。

ドゥルーズにとって<私>とは、出来事を引き受ける個体を前提にして、それが分化した位相にすぎない。つまり結果論的に<かたち>を持つ<私>に対して、「<私>とは何か」「<私>はどうあるべきか」という議論は意味を失うのだ。議論するべきは個体に基づいた振る舞いの倫理なのである。
この際に気をつけなくてはならないのは、共同体の倫理、間主観性の倫理、他者の倫理、死に向かう倫理のいずれも、生成の軸に置かれることはないということである。これらの倫理はたしかに<私>の不在を前提にするものであるが、分化の果てに位置付けられるという点においては<私>と共通している。個体がシステムを支えるこのシステム論ではあくまでも内的な差異化を通して生成を語ることができなければ成立しない。
彼が描くのは個体の分散する世界である。そこでは、ひとつひとつ(ひとりひとり)が知覚の隙間という普遍に属しながら、それぞれに問題を設定し、それぞれに問題を解くものであることが前提となるのである。

マジョリティに対して抵抗し続ける「マイノリティ」

ドゥルーズはメジャーサイエンスに対抗する知として「マイナーサイエンス」という概念について述べ、これがマイノリティの源泉にあるとする。マイナーサイエンスは集団員の行動原理となる行為的直感のことであり、彼ら固有の知である。これは普遍を志向するものではなく、自然の中に物質(<かたち>)として存在するものを物質が持つ潜在的な論理に従いながら、そのままに引き立てる(=その連続的な変化に沿う)役割を果たす。
*メジャーサイエンス:国家の知。王道的な科学。

この場においての「普遍」とはメジャーサイエンスにおいて取り出されるものである。メジャーサイエンスの元となる国家は碁盤の目のように空間を幾何学的なあり方で区切る「条理空間」に分類され、形相的で固定的な測定の対象として認識されている。条理空間の対に位置するものとして「平滑空間」がある。これは砂漠や海のように、一見そこでの指標となるものが失われた空間のことだ。それ自身として流体的であり、測定における把捉を逃れていく。

彼はマイナーサイエンスを有した集団を冶金術師や遊牧民などの例をあげながら、平滑空間を生きる「徒党集団」と呼ぶ。彼らは仕事に必要な鉱脈を見つけるべく自らの行為的直感に従い移動し続ける。彼らは自身の意識を元にした計画よりも自然の連続的な変化に身を任せ、概念と質量の「中間地帯」に即応する。この自然に含まれるノモスの自己展開をベースにする知識体系は「機械状系統流」と呼ばれる。

「機械状系統流」をイメージするために、金属を頭に浮かべて欲しい。金属は熱した場合に流体となり、一旦加工を施すとその形を相当期間保つことが可能になる。
国家が「王」と「法」によって条理空間を保持するのに対し、徒党集団の世界は機械状系統流を基盤に、平滑空間を出現させる。

マイノリティというと、多数に対する少数という見方をするのが一般的だろう。世界を正常と逸脱の図式を当てはめて考えようとすると、国家が提示する区切りの不完全さゆえに、正常と逸脱の境界線上にいる人間ばかりになってしまう。つまり、マジョリティとは条理空間の中で出現する存在であるのに対し、マイノリティは条理化されて数えられるものではないのだ。マイノリティとはマジョリティに対して抵抗し続けるあり方のことを意味するのである。


広がりをうむ資本主義との関係

資本主義の強みは、あらゆるものに対して同型性をおしつけ、数えられるものを形成することだ。ゆえに資本主義は一定の段階にまで様々なものの解体を推し進める。しかし、資本主義には、どんなに解体を進めても、それ自身を解体することがないという落とし穴がある。資本主義の公理系は「同型的に」ある種の横につながる入れ子構造のような仕組みをつくって、さまざまな領域を包摂してしまう。資本主義は条理空間をつくるための最強のツールとなる。
前述の通り、マイノリティはそもそも数えることができない存在である。マイノリティのひとつひとつは数えられない数となり、公理系をもちいる資本主義への脅威となる。

ひとは公理化された場面においても、多孔的な穴をもち、様々なものに変化できる。そこで人間の数は数えられない。それはひとりでありつつも多数であり、多数であると同時にひとりである。私は正常者のマジョリティであるかもしれず、だが同時に異常者であるかもしれない。私は男性であるが、ある側面では女性かもしれない。公理系を超える群の力と、その数えることの不可能性が鍵となる。 P.210

人間の多孔的な穴(経験や知覚の隙間)の存在は限りなく普遍的であり、これらを共有しない人間など実在さえしないだろう。この普遍は生きる過程において至る所で引き出されることになり、人間はそこから突きつけられる「解けない問い」と向き合うことになる。
「安全な」マジョリティの立場を維持することができないこの世界の中で、私たちは自身がかかえ持つマイノリティ性をさらけ出すことでしか考えを進めることはできない。そうした自己の中にあるマイノリティ性に届いたとき、公理が捉える条理空間のなかで平滑的な「革命的連結」が生まれるのである。

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、、と、言ってる意味はわかるけど、私これを飲み込んだ上で何かを発露するまでにはもう少し時間がかかりそうです。入門書でこれなんだから、原本で挫折するわけです。
あとは、事業を立ち上げようとするときなんかは、たしかに知っておくと良さそうだなと。私は、あの方の意図を多少は汲み取れたのでしょうか。