結果論という名の魔法

何かを書こうとして3週間が経とうとしている。
書こうと思ったことのメモは量ばかりが増えて居場所をなくしてしまい、
そんなものを生み出してしまった自分に嫌気がさす。

心に引っかかるものはたくさんある。
例えば来月に迫る大学受験に身が入らない弟と話した時。彼は「自由には責任が伴う」という言葉を知らなかったらしいとか。

例えばとある本を読んだ時。世の母親はこの世に新たな生を生み出すと同時に、新たに死を生み出していると言われて、妙に納得してしまったこととか。

例えば理系の院に進んだ高校の同級生と話した時。科学がわからないものをわかろうとするのに対し、文学はわかったと思われるものをもう一度わからないものに変えようとしている。一方で、宗教はわからないものを全て「神」という存在に担わせてしまっているとか。

どの話に対しても私自身のポジションは明確にあるのだが、どうしてもそれらを一つの視点として回収して、結論めいた何かを言葉にすることができない。

一方でそんな態度は現実主義的な、必然性の意識が欠落した、「甘ちゃん」の考え方だと戒める自分もいる。(貧困層出身の父親が常日頃「お前らは豊かな生活をしてるからだ」とブチギレていたことも関係しているかもしれない。)
「いま自分がやっていること以外のことができる」という考え方は、希望もくそもない真っ暗な生活をもう少しだけ続けるための活力を人々に与えると同時に、自由への無知がもたらす傲慢さに満ちた世界をも創造しうる。

個人的に最も恐れているのは、力を獲得した人々が幻想を語ることにためらいを覚えなくなった世界であり、自身がその世界の住人となることだ。
世界は何かしらの制約が働いており、その制約があって初めて「自由」が実体を伴うようになる。
死を目の当たりにした者ほど生の実感を強めていけるように、
制約を認識できた者だけが、質量を伴った自由を感じ、制約に対して働きかける自由を獲得するのではないだろうか。

しかしそれもまた無知な人間のつまらない妄言の一つでしかないかもしれないわけで。
高校生になったらリア充になれると思っていたけど高校デビューに失敗したあの子のように、
大学生になったら彼氏ができると思っていたけど全然そうではなかった彼女ように、
今私が考えていることなんて、結果論でしか語れないのかもしれない。

そう思うと、少しだけ肩の力が抜けて、世界が優しく見えてくる。