見出し画像

暇の効用

長男を育ててきた中で、間違っていたと思うことの一つが(いっぱいあるのだけど、まだ5歳なのにいっぱいある・・・)「暇」を悪のように捉えてきたことだ。

一人目育児は、子供に注ぐ時間も体力も気持ちもたっぷりとある傾向にあり、とにかく刺激を与えなきゃ!と思っていたこともあり、子供が暇そうにしていると、あ!おもちゃを渡さなきゃ!とか、一緒に遊ばなきゃ!とか、もう少し大きくなると習い事させよう!とか外出しよう!とか、とにかく子の周りに、モノ、コト、ヒトと刺激になりそうな、ありとあらゆるものを隙あらば置こうとしていた。

まだ5歳の結論なので説得力はないが、そうしなければ良かったと思っている。

暇を与えられてこなかった息子は、少しでも時間ができると遊ぶ(出来合いの)おもちゃを探し始め、YouTubeが観たいと言ったり、一緒に遊んでよーと叫んでいる(笑)。普通の子供の姿であるが、自分一人で想像力を働かせて、何とか遊びを作り出そうという気がほぼ無い。

一方で、胎児の時から1か月に一度の健診の時だけ思い出され、産まれ出てからも兄優先の生活でテキトーに育てられている1歳3カ月の弟は、暇を楽しく生きるプロだ。彼は今日も、外のカラスを眺めては鳴き声の真似をしたり、美しい夕焼けを見つけては覚えたての「キレー(キレイの意)」を連発して目を輝かせる。おもちゃなんて要らないのだ。
その兄弟の違いを目の当たりにして、(年齢的なこともあるかもしれないが)子供にとって「暇」は最高の贈り物だとさえ思うようになった。

↑上↑の話は、「物をどれだけ与えてきたか」、「どれだけ我慢をさせてきたか」とか「親がどれだけ関わってきたか(良くも悪くも)」の話にもなってくるが、それは別で書きたい。今回は「暇」フォーカス。

で、暇って素晴らしいと思う。何もすることのない時間は想像力を掻き立ててくれるし、忙しいと気が付かない小さな感動を見つけられたりもする。暇だから仕方なくする遊びや、暇じゃないと遊ばないような友達から発見することもたくさんある。退屈だからこそ、どうにかしようと主体的にどうにかしようとする力は、子供たちに是非つけてほしい力である。

私は小学校の時にピアノを習っていたのだが、片道20~30分くらいの先生の家まで一人で歩きながら、頭の中で妄想ショーを繰り広げていたのを記憶している。もちろんスマホや、音楽を聴くものも持っていなかったから脳内で遊んでいた。当時光GENJIのあっくんが好きだったのだが、突然あっくんが私の前に現れた設定を作り、出会ったしまった時の印象の良いセリフを考えたり、ドラえもんの「着せ替えカメラ」が手に入った時に着たい服を考えたりもしていた。今考えるとステキな時間だったなあ、と思う。

現代に生きる子供たちってそんな暇な時間ってあるのかしら?スマホもテレビもおもちゃもなーんにも無い状態での退屈な時間。暇が引き出してくれる子供たちの能力とか想像力は計り知れない。コロナ禍での自粛生活が実は良かったと言う声も聞く。
なんて書きながら、週末の予定を絶賛立てている矛盾だらけの自分がここに居るのだけど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?