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中毒

私のあらゆる行動に、インターネットへの参照とインターネットとの同一化の欲求があり、その状況を中毒という言葉で表現しても、まったく問題がない。

昨日は空腹だった。昼にセブンイレブンのサラダと差し入れのお菓子しか食べなかった。

昨日は幸運にも食べなかった。一昨日の夜にたくさん食べたからか、あまりはっきりとした空腹感は感じなかった。少しでも食べてしまうと、そこからブーストがかかり、たくさん食べる傾向にある。今日は、朝にけっこう食べてしまったせいか、余計に昼食を多く食べてしまいそうな気がしている。すでに満腹感があるのにだ。

空腹感をいかにコントロールするか。それが重要というのは「ろんりはしってる」のだけど、しかしそれだけではない。空腹感がないのに食べてしまう。それがどういうことなのか自分でもわかっていない。理屈でない部分で、空腹感の余韻によって食べることを選んでしまう、そんな夜がある。実は、まさに今日だ。これは、UberEatsの利便性及び中毒性に一因があり、あまりにもすべてが高価であることから、麻痺状態に陥る。

私を止めるものがどこにもいない。独居していることにも一因がある。おそらく他人と住んでいれば、他人の目が気になって、こんな生活は送っていないだろう。一晩のうちにキッチンでパスタを作って、レトルトカレーを作って、仕上げにUberEatsを注文することが論理的には可能なのだ。誰も止めるものはない。そんなことは起こり得ないと思うから誰も忠告はしてこない。論理的に可能であれば、実施できてしまう。深夜になり、UberEatsを注文できなりさえすれば、流石に私の指は止まる。たとえUberEatsのアプリをアンインストールしても、UberEatsを注文したくなったら、インストールして注文すれば変わらない。

自覚が足りないのだろうか。自覚するだけでは足りないのだろうか。どこをどうすれば止まるのか。止まってほしいと思っているのか? 別にどうなってもいいと考えているのか。どうなってしまうのか、知っていないはずはないのだ。

「やってはいけないと思っているのにやってしまう」という言葉が成立するのかどうか。「やってしまう」ということは、「その状況がまずいとは思っていない」ということだ。反省しているのに繰り返してしまうわけではなく、反省していないから、繰り返してしまう。だから「本当に」反省しているのであれば繰り返さないはずだ。

これって、中毒における精神状態を示しているのではないか。中毒になるのか、中毒でありたいと考えるのか。この境地に自分で自分を立たせているということについては自覚できている。

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