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楽がしたい

ここでは、本当にそれでいいのだろうか? を考えていきたい。

そもそも、不明瞭な文章を書かないほうがいいのは前提だ。すべての人間が、起きてから眠るまでの間に、他人と関係している。それについて、私は特段の苦痛なく行っていて、必要不可欠なもの、かけがえのないものだと思っている。たいていのコミュニケーションは、言葉を使ってやりとりをしているし、時には、他人に自分の書いているものをわかってもらいたいと思うことがしばしばある。しかしそれは、ある意味手癖の範囲内であり、また、年齢を重ねれば重ねるほど致命的な不備を指摘されなくなるうえに、致命的の一歩手前の失敗ばかりを続けてきている自覚がある。

――しゃらくさいことを言わず、他人のことを一番に考えるんだ。他人がどうすれば喜んでくれるかを、常日頃から考えるんだ。

他人に伝わらない文章を書き続けることは不可能だ、とかそういう話でもない。かつては、ファミコンソフトのデータから文字列部分を抽出して、無造作に出力しているだけのウェブ日記を読んで唐突に涙を流したこと、それを当時の上司に笑い話として話したこともあったが、ワードサラダを見ながら、涙を流せる域に達するべきだとかいう話でもない。今は、そういうブログは目に入らなくなっているようだし。乗っ取られたcgi-binディレクトリの下にいる動的ファイルどもの断末魔は、検索結果から除外され続けている。

――意味のない文章については、辞書に任せておけ。猿のお手製では情緒が生まれてしまう。辞書を後ろから読みさえすればよい。それが済んだら次は、各ページの上から数えて七番目の文字をさらい続けろ。

私は、一般に、人間は一人で生きていくべきものとは考えていない。更には、一人で生きていかないで済むのであれば、可能な限りそうしたいし、そのようにありたいと私は考えている。そうでなければ、今もこうやって他人が見るかもしれない場所で何か書こうとはしない。

――文意を明確にし続けろ。

正直なところ「俺は本当に一人でいたくないと考えているのではないか」という疑問が時々首をもたげてきているように感じているのだが、もたげてきていること自体、そうなればいいな、楽ができたらいいなという期待のもとに、「正直なところ一人で生きていけるのであれば、一人で生きていきたい」自分でありたいと考えているのではないか。怠惰の結果ではない、決してないと。それが理由で、不明瞭な文章を書くことがさも当然であるかのような書きぶりになったのではないか。その思いがよぎる毎に、ひんやりとした風が首筋を流れる。

――文意を明確にし続けろ。


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