チェリまほ9話で考えたこと

こんにちは。巻寿司です。
チェリまほの世界が大好きでとうとうnoteを始めてしまいました笑
というのも、チェリまほ9話を見てちょっと長文で色々書きたいことが出てきまして。以下長文になりますが、何か皆様が共感できることがあればいいなと思いつつ書いてみました。

相変わらず尊いシーン目白押しの9話でしたが、個人的には柘植が勘違いを受ける部分の設定に考えさせられました。
「ゲイ」という単語があんなにもはっきり描かれると思ってもみなかったので軽く衝撃を受けましたが、ここにきて改めてチェリまほの凄さを実感したように思います。

まず前提として性嗜好に関する私の考え方なんですが、基本的に「誰を好きになるか」ということは、人それぞれ違うのはもちろん、その人の人生の中でも時とともに変化しうるもの(変化しない人を否定するという意味ではなく)だと考えています。そういう意味で、理想的には「誰を好きになるか」に名前をつけて区別する必要がなくなればいいなと思っているのですが、もちろん現実には性嗜好による「区別」は明文的に存在しますし、今の世の中ではそういう分類をむしろ必要としている方もいると思います。一方で、その「区別」をもとに心ない態度をする人がいるのが現状です。

チェリまほに関して言えば、安達が黒沢の思いに気づくことが物語のスタートラインでしたが、今までを通して一度たりとも「黒沢って『そっち』だったの?」というような表現は出てきていません。(むしろそういう表現があったら、ここまで私がハマることもないのかもしれませんが・・・)
それもあって9話までは、

・そもそもLGBTQとかいう概念が存在しない世界観(私の中で世界の理想形)
・LGBTQという概念や差別は存在しているが、安達の価値観としてそういう思考はしない(現実世界で個々人ができる理想形)

のどちらなんだろう?というのは何となく気になっていました。

それがここにきて、後者だということがはっきり示されたということになります。

心ない差別が存在する世の中だからこそ、勘違いやすれ違いが生まれることもあるけれど、「柘植はそういう奴じゃない」という安達の全面的な信頼は、チェリまほというドラマそのものへの信頼感とリンクするところがあります。例を挙げればきりがありませんが、「好かれているからといって襲われるとか考えたら失礼だ」とか、「もし藤崎さんに好かれていたとしても同じように混乱するはずだ」といった表現の一つ一つが思い出されます。

「誰を好きになるか」という括りに囚われず、何人にも一人の人間として向き合うべきだという姿勢が当たり前に登場人物に根付いているから、見ていてホッとするのかもしれません。9話で描かれた六角と湊の友情も、その姿勢の上に成り立つものですよね。

更に言えば今回の話を受けて、例えば黒沢や安達や柘植はゲイなのか?という点についても、ドラマ制作陣がどう考えているのか何となく分かったような気がします。

湊に関しては「自分はゲイだ」と自他共に認めていることが分かりましたが、黒沢がゲイだという表現は出てきていません。今では黒沢と付き合っている安達だって「清楚な女の子が好み」でしたし、柘植に関しても「相手は男だし、俺の嫌いなチャラチャラしたパーティーピーポー」などと言っていました。

チェリまほは確実に、「男性が男性を好きになること」と「ゲイだと自認すること」を区別していますし、そのどちらも尊重しているということなのでしょう。

性嗜好を分類する言葉は存在するけれど、(分類する言葉を必要とする人もいるだろうということは初めの方でも書きましたが)湊のように自分のアイデンティティをその言葉の中に見出す人もいれば、安達のように、そうでなくても同性を好きになることがある。

型に当て嵌めた分類や区別ではなく、それぞれの生き方がただ個々に大切なんだよ、というメッセージも、チェリまほが伝えたいことの一つなのかもしれないですね。

そんなこと、私が改めて言うまでもないことかもしれませんが。


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