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わが心のイエメン 1994

イエメンは、よく忘れられた国だと言われる。2015年から内戦が続いている。世界最悪の人道危機とよく言われる割には、日本のジャーナリストもほとんど取材にはいかない。森佑一さんは、若手ジャーナリストの中でもイエメンを取材した数少ないジャーナリストである。彼は、10月3日から15日まで東中野のポレポレ座での展示を企画中だ。
この企画ができるように、彼を応援しているうちにイエメンのことをいろいろ思い出したので書いてみた。

実は、僕は、1994年4月にイエメンに行ったことがある。青年海外協力隊に参加してみたわけだ。
1989年は激動の時代だった。どういうわけか昭和がいきなり平成になり、天安門事件、気が付くとベルリンの壁が壊され、世界は民主主義を声高に叫んでいた。1990年には、イエメンもソ連に見切りをつけた南イエメンは、北イエメンと悲願の統一を成し遂げた。北の独裁者の大統領は、サダム・フセイン、イラク大統領とも仲良し。南はというと共産党の一党独裁。つまり独裁国家と独裁国家が統一されるとおのずと2大政党の民主的な国ができる!なんと素晴らしいではないか!しかし、その後、イラクが、クウェートに侵攻し、湾岸戦争が起きてしまったのだ。まさに激動の時代だったので、サラリーマンをしていた僕ですらムズムズしてきて気が付いたら会社を休んでイエメンに来てしまったというべきか。

 しかし、統一したはずの南北の衝突が顕著になり、一か月も立たないうちに内戦になり、僕たちはイエメンを追い出されたのだ。ともかく、イエメンのことは、半年かけて勉強した(たった半年ともいえる)。なみだの脱出劇になってしまった。
 崇高な理想を掲げ、世界平和を下支えする草の根的な国際貢献を目指した当時の僕の日記を読み返してみる。

  隊員は、フランスで一泊してから翌日のフライトでサナアに向かう。昭和時代むき出しの年長のモットールと呼ばれている隊員は、パリでポルノ雑誌を買ったために、入国の荷物検査が近づくと落ち着きを失って隠す方法を考えていた。しかし、入国審査では、そんなものよりもワープロが気になるらしくい詳しく調べていた。飛行場を出ると、憧れたイエメンについにやってきた。正面にはモスクがあり、お祈りの時刻になったのでアザーンが響き渡る。子どもが2人、荷物運びを手伝いだし、チップをせがむ。途上国につくとまずこういったしつこい子どもたちを蹴散らすことから始めなければいけない。子供のくせに小さなジャンビアナイフを腰にさし、かわいらしい。飴玉をやると、こんなんじゃなく、お金が欲しいと言いたいのかぶつぶつ不満そうである。大概の子どもは飴で満足するのに。「舐めな」と勧めると頬を指差して、口の中にはカートが入っていると教えてくれる。カートは、覚醒エキスの含まれた葉っぱで、イエメン人はこれをくちゃくちゃやって覚醒していると聞いていたが、こんな小さなこどもまでがくちゃくちゃやっているのは、ああ、イエメンに来たんだと、なんだかうれしくなった。

4月26日
その日はジャイアンが、下痢で苦しんでいたので、とっておきのウイスキーをもってお見舞いに行った。彼は、柔道を教えていたが、豪快な若者で、部屋の中にバーのカウンターを作って、隠し持ったビールを飲ませてくれた。
 ジャイアンは、まだ体調がすぐれないのかウイスキーはほとんどのまず、僕とモットールの二人で開けてしまった。モットールは二日酔いで、「今日は、アラビア語学校は休みますばい」
「ここはイスラムの国ですよ、お酒飲んで二日酔いで休むなって不謹慎でしょう。」僕が諭すと、
「じゃあ、先生にこういっといてください、昨日食べたチャーハンのせいで腹が痛うて」
チャーハンを作ってくれたのは女性隊員だったので、それを聞いていた彼女はむっとしていた。


4月27日
 その日は、勢いがついてハッダホテルへビールを飲みに行った。ここはコリアレストランが入っていて寿司も食える。缶ビールは一缶350円程。ロカールレストランでは、ディナー3食分くらいの値段はする。
ジャイアンの体が回復したので、また彼のところに立ち寄って飲む、女性隊員が密造しているワインを持ってきてくれた。
4月28日
さすがに二日酔い
アムランで戦闘。200人以上が死亡。サナアの病院は怪我人であふれる。
米海兵隊とソフトボールの試合があったが僕は二日酔いでキャンセル。
4月29日
エビチリを食い、その夜からおなかを壊す
5月2日
体調も回復したのでシェラトン・ホテルでビールを飲みに行くことにした。モットールは、フィリピンから出稼ぎに来ている女の子にアイラブユーとか言ってスケベオヤジのようになっていた。それを静止するのが僕の役目だった。


なんだか、酒ばかり飲んでいて、とても崇高な志を秘めた若き隊員には見えない。
5月5日に戦闘がはじまったってからも、5月9日に避難するまで、ドミトリーに缶詰め状態になっていた。先輩隊員たちが隠し持っていた貴重なアルコール類を放出。それを毎晩飲んでいた。
ドイツ軍が救援機を出すことが決まった夜も、僕は飲んでいた。

5月8日
女性隊員だけが先に米軍のジェットヘリでサウジへ移動するという話がまとまりかけていた。女性隊員も自分たちのアパートを引き払ってドミトリーに集まってきた。
女性隊員が大使館員からもらったというとっておきのウィスキーを持っていたので、僕らは、それにたかるハエのように夕方5時頃から飲んでいた。
急遽、全員がドイツ軍の輸送機でサナアを脱出することが決まった。10㎏までに荷物をまとめろと言われ、ひと段落ついたところで飲みなおした。
僕には左腕に自傷行為の傷が一か所あった。別に自殺しようとしたわけではないのだが、高校の時に試しに切ってみたことがあった。血が出るもんだとおもって切ってみたら脂肪が丸見えになりなんだかとても気持ち悪かった。なんというか割礼のような儀式だった。
ウイスキーを持ってきてくれた女性は、僕の、半ば忘れかけていた傷をあざとく見つけ、彼女の手首を切りつけた無数の傷跡を見せてくれた。
「本物だ」僕は心中でつぶやいていた。
「彼と同じところに傷がほしいの」最近つけた傷は手のひらの人差し指の付け根にあった。彼氏にも同じところに傷があるらしい。なんだか、そういうのは少し理解できた。
彼の話をし始めた。今頃自殺しているかもしれないといった。
標高2300mのサナアで酒を飲むとよいが早い。僕たちはそのうちふざけながらあちこちに落書きをし始めた。当時は、少しばかりはイラストレーターの仕事もしていたので、少しは価値お有る落書きかもしれなかったが、みんなからしてみれば顰蹙を買っていただろう。
明け方に、これからの避難を考えて、みなは一生懸命おにぎりを作っていたというのに、僕は不謹慎にも酔っぱらって寝てしまっていた。

私は、この時の戦争体験を国際協力に進むきっかけになったとして若い人に今でも語っている。
「崇高な志を持って、イエメンに赴任しました。イエメンの発展に貢献したいという思いで一杯だったのに、ことが起これば真っ先に逃げる。逃げることができるのが日本人です。特に僕は一か月語学学校に通っただけで、本当に何もしなかった。でも日本に帰ってきたら、「よく頑張りましたね」とちやほやされた。やり残したこと、それをやるために、結局会社も辞めて国際協力の道に入って行ったんです」
というような話をするのだが、当時の日記を見てたら、酒ばっかり飲んでいてバカみたいとしか言いようがない。勿論、行間には崇高な志が見え隠れしているが。

戦闘機が撃墜
避難しているところ


C130の中
ジブチの難民キャンプに収容された


当時の新聞 93,94邦人の書き方が気なる。


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