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広島でイスラエル、パレスチナ、日本の若者が参加するワークショップに参加してみた。


広島の若者を代表してイッサ君がスピーチ

「聖地のこどもをささえる会」が実施している「平和の架け橋」プロジェクトに同行し取材をしています。このプロジェクトは、イスラエルとパレスチナの若者を日本に招聘し、日本の若者も加わって平和を考えようという取り組み。
 8月11日、被爆証言を聞いた後、広島で活動する2団体、一般社団法人 8thRiver Hiroshima、sotokaraにも共催していただき、今回の参加者と広島の若者たちが対話するワークショップを開催しました。
まず、問題提起として、今回プロジェクトに参加しているイスラエル、パレスチナ、日本の若者が原爆ドームや被爆者の話を聞いた感想と今、自分の国で起きている事などをスピーチ、広島の若者からもたたき台となるようなスピーチをしていただきました。
イスラエル、パレスチナの参加者からは、
「広島の生存者の頑健さと同じように、私たちにもストーリーがあります。私たちの状況は複雑です。核兵器が爆発した町で様々なものを見せていただいた中で、私は、どうにか話し合って対立の状況を解決していく方法がないのであろうかと思うようになりました。世界は、イデオロギー、歴史、人種で分断されています。私たちはそれを超えた協力体制を作っていかなければならない。私たちが共通の悲劇を認識することによって何か変わるかもしれないという可能性は続いていく。ユダヤとパレスチナの歴史は痛ましいものですが、広島で学んだことは、思いやりであったり、ともに苦しむということがこれからの解決方法を出してくれると思いました。広島がこれまで核兵器の惨禍をのりこえてきたように、世界は違いを尊重し合い、対立をのりこえていけるのではないかと思わせてくれました。」
「ヒバクシャの森下弘さんは、信じられないような体験をされた。考えられる最悪の体験をされた。そのようなことを人間自身が作り出したこと、それは情けない、恥だと思う。次の世代には、今の(パレスチナの)若者が体験しているような絶望をしてほしくない。戦争に慣れてほしくない、人生に希望を持ってほしいと思う。」

広島の高校生がかたる
 
広島の若者を代用して、高校3年生のイッサ・サウザーさんがスピーチ。
「わたしの父はアメリカ人、曽祖父は、沖縄戦で闘い、撃墜されました。母は日本人でお爺さんは、小学校の時に被爆し、遺体の山を見なければいけなかった。なので、私は若いころから異なる立場から考えるチャンスを与えられました。
原爆に関しては、私たち若者が広島からメッセージを伝え続ける責任を感じています。広島からのメッセージは簡単です。『ノーモア・ヒロシマ』。2つのことを説明したい。一つは教育です。」イッサさんは、当時の日本の教科書を紹介。一方アメリカではいかに日本人が悪魔のように教育されていたかを紹介。このような教育はいまだに続いています。広島では、原爆はひどい事、戦争は止めなければならないと教えられますが、よいこになりなさい。よい日本人になりなさいと。アメリカではフロリダでは、人種差別の歴史を教えてることは禁止されています。アメリカが悪いというような考えは禁止されているのです。私たちはこういう戦争教育をやめて平和の教育をすべきです。私たちはどのような国籍や人種によらず、生きる権利があります。」
そしてイッサさんは、自身がG7若者サミットに参加して岸田首相に会った時の話をしてくれました。
「2つ目は組織=G7の失望についてです。ヒバクシャの森重昭さんは、「世界から核兵器をなくす大きなターニングポイントになるべきだと期待する」と言いました。私は、世界を変えることができると期待しましたが、すべてが終わると、核兵器の正当性(抑止力)が謳われ、核兵器禁止条約に関しては、一言も触れられない広島ビジョンが発表されました。私はとても失望しました。」
そしてイッサさんは、公民権運動の指導者であったアブラハム・ジョシュア・ヘシェルの言葉を引用します。「man is a messenger who forgot message(人はメッセージを忘れたメッセンジャです。私は広島のメッセージを忘れたくない。ノー・モア・ヒロシマ!」

その後、広島の若者、とイスラエル、パレスチナの若者たちがグループに分かれて、広島訪問の感想や、平和について何をイメージするかなどを話し合いました。

グループで話し合い

ワークショップで平和について考えてみた

 今回兵庫県からプロジェクトに参加している小田さんは、彼女が参加したグループでのやり取りを以下のように報告してくださいました。
「原爆ドームや平和祈念資料館に行ってみて感じたことをシェアするアクティビティでは「悲しみ」「怒り」「心の痛み」「心が凍りつくほどの衝撃」というキーワードが出てきた。資料館にある写真は広島に住む人々一人ひとりが今の私たちと何ら変わらない日常を過ごしていたのに、それを一瞬で破壊した痛ましさを私たちに伝えるものだった。被爆して亡くなった子どもたちの遺品とともに展示されていた愛する家族を失った悲しみを表すコメントを見ると彼らの悲しみが自分のことのように心に迫ってきた。こうした展示を見ることは耐え難いことだが、過去に何があったのかを学ぶために私たちはそれに向き合わなければならない。それを学んだ上で未来において過ちを繰り返さないように何ができるのかを私たちは考えるべきだ。
ここまでの意見はグループ内で日本、イスラエル、パレスチナいずれの立場でも共通した考えだった。しかし、パレスチナの立場からは「資料館には米国側の原爆投下に対する謝罪の言葉が一切ないのはなぜか?それがないことに怒りを感じる。」という見方していた。その上で、「私たちパレスチナの人間もただ相手からの謝りの気持ちとそれを言葉で私たちに伝えてくれることを一番求めている。」と発言していた。パレスチナの人たちは原爆を投下した側の米国と投下された側の日本を自分たちのイスラエル・パレスチナの占領する側・される側の関係に重ねて見ているのかもれない。
何が「平和」のために必要か考える場面では「それぞれが相手の立場に立って考えられるオープンな心を持っていること」「忍耐強さを持って平和の実現に向けて長期的に考えること」「それぞれの多様性を尊重し、違いを受け入れること」「歩み寄りの精神を持っていること」が挙げられた。人同士の関係は個人レベルにおいても、国家レベルにおいても必ずしもwin-winの関係ではない。だから、互いの歩み寄りが不可欠なのではないかという考えは三カ国のメンバーが全員一致した。
日本人の私にはこの広島でのワークショップでイスラエル側とパレスチナ側で平和を切望している熱量が違うように感じた。やはり、現在に至るまでより多くの人々が身近で傷つけられ、殺されるのを目の当たりしている状況がそうさせているのだろうかと疑問に思うとともに、この熱量の違いに衝撃を受けた。」
とのこと。

感想
私も若者たちに交じって、ワークショップに参加。
平和をイメージする言葉と言えばなんでしょうか?争いがない。平等な社会、安心して暮らせる、妥協、理解、正義という言葉が並びました。
 政治というのは、不平等をいかに正当化して、自分たちのグループに利益をもたらすか、これが高度な政治手腕ということであれば、政治学はいかに相手をうちのめすかというロジックであり平和とは真逆。なのでなかなか平和は実現しない。妥協しないことが政治的な勝利です。個人的には、イスラエルが、妥協して国際法に違反した占領をやめれば、それで、殆どは解決してしまう問題だと思っていて、一方、パレスチナ人に占領を受け入れ、人権侵害されていることを妥協しなさいと言っても、そんなのは、妥協できないのは当たりまえ。結局和平は1㎜も進まず、むしろ後退している。
ここに参加している人たちは政治家でもなく一般市民なので、議論しても何も変わらないという意見もあるものの、アイデアを出し合うことは、現実から離れてポジティブな未来像も見えたりします。

じゃあ、実現可能かどうかカテゴライズしていったら可能なものは、ピースマークだけになってしまいました!

やっぱり、広島に来てよかったと思うのは、日本はほとんどの場所で、若者たちは平和ボケ状態に置かれていて、広島というのは、世代を超えて世界の平和(核兵器の廃絶)を目指すという強いエネルギーにあふれている土地だなあと改めて実感。そこで頑張っている人々は人間として素晴らしい人達。人類の財産に触れると、平和を作っていかねばならぬと思う次第です。

イッサ君のお父さんのアシュレイ(右)は、私がパレスチナのNGOで働いていた時の同僚でした。近所にすんでいた日本山妙法寺のお坊さんと一緒に千羽鶴を難民キャンプで折ったりしました。


ワークショップを終えて、広島のスタッフたちと。

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