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小説【まち子の指先】(1)

<はじめましての言葉>

美月麻希です。はじめてnoteを使います。【まち子の指先】は同人誌『白鴉』29号に掲載した短編小説です。作者本人は「0人称」小説だと思っています。2016年全作家文芸時評賞の最終候補になりました。「序破急」の構成で、まずは「序」からです。よろしくお願いします。

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    序

 風になびいた長い髪が鼻先をかすめていった。スカートの内側の膨らみが、歩を進めるたびに卵色のニット生地を伸縮させる。水色の編地におおわれた上半身はゆるやかに踊っているようだ。遅咲きの桜の花びらが舞い落ちて、腕を振るたびになめらかに動く肩甲骨のあたりにくっつく。前方から歩いてきた中年男性の二人連れがあからさまに彼女の顔に目をやった。二人でなにごとかを囁きあったあと、下卑た笑い声をたてた。薄紅色の欠片をつけたまま彼女はわき目もふらず歩みつづける。すっと伸びた背筋で明るい栗色の髪が跳ねる。彼女は急に立ち止まり、右足を起点にして身体を横に向けた。一瞬、すべての筋肉が静止状態にはいる。口角をきゅっとあげて笑っているような横顔がうつむき、髪が流れて白い頬にかかる。細くて長い指が、肩から下げた鞄の中をまさぐる。指先にはさまれた赤銅色の鍵が太陽の光を受けて輝き、灰色のシャッターの鍵穴に挿しこまれた。シャッターの上に〈フラワーショップMACHI〉と書かれた木の看板がある。華やかな小花のイラストが文字を囲んでいた。彼女の後ろに男が立つ。肩に男の手が軽く触れたとたん彼女は全身をびくっとさせて振り返る。こわばった頬がゆるみ、あら、おはよう、という透明な水に細かな砂が混じったような声があたりの空気をふるわせる。白衣を着た背の高い男はマスクをつけていて、年齢はわかりにくいが、目尻には深く刻まれた皺がある。三十歳前後にみえる彼女よりも十歳ほどは上だろう。彼女が出勤してきたのを見つけて、仕事の手をとめ、わざわざ隣のパン屋からでてきたようだ。男は彼女の笑顔と挨拶をもらっただけで満足気に目を細め、店に戻っていった。パン屋から出てきた背広姿の同僚が視線を投げてきたが、ついと顔を背けて隣にそびえるオフィスビルに入っていく。彼女はカードをシャッター横のボックスに通してボタンを押した。じーっという音とともに下からガラス面が現れてくる。非常灯の明かりがぼんやりと花々の影を浮かびあがらせた。
 オフィス内で行われた朝礼で、営業部長がアパレル会社からヘッドハンティングしたデザイナーを紹介した。黒髪をきりりとしたボブカットにしている。妖しさの欠片もない女。テキスタイルのものづくりの経験はありませんが、生地の特性を生かした洋服の提案で営業活動に貢献します、と挨拶があった。フロアーにいた人間たちがそれぞれの持ち場に散る。
 スマートフォンの暗いディスプレイに太った男の輪郭が映る。電源が入れられ、男は光の中に消えてしまう。Googleの検索窓に〈フラワーショップMACHI〉の文字。画面の左隅に看板の写真が映った。上三分の一に胡蝶蘭、白い薔薇のブーケ、黄色いスイトピーと数秒おきに異なった花が現れては消える。店舗情報の窓が開く。彼女の笑顔の下に、〈フラワーデザイナー 伊東まち子〉と書かれていた。画面いっぱいに広がったまち子の顔は左右非対称だった。右目はくっきりとした二重で黒いつぶらな瞳が小鹿のようだ。一方、左の目は奥二重で、うす茶色の瞳は冷たい光を湛えていた。微笑みを浮かべた唇も、右半分は聖母のごときあたたかみがあるが、左の口角には酷薄さがにじんでいる。まち子の顔は微妙にずれた均衡の上にある。あとほんの少しどちらかに傾けば、醜悪な部類に属してしまう。あるいは完全につりあえば、平凡な顔になる。だけど、その不均衡ゆえに忘れられない印象を残す。定休日は日曜日と祝日、店舗は十九時閉店、月曜日と木曜日の教室が二十一時までとあった。
 あいつ、島津とかいったっけ、研修終わって配属されてきた新入社員だろう。いい大学出たらしいけど、挨拶もろくにできないくせにこそこそスマホいじってやがる。うちの人事も見る目ないよな、あんなやつ採用するとは。ぶくぶく太って陰気な面だしな、あんなんでデザイナー相手に営業できるのかよ。おい、やめとけ、噂じゃあ名誉会長の外孫らしいぞ。マジかよ。名誉会長の娘がつまらん男と結婚して早死にしたから外孫といっても、同じ家で暮らして溺愛されてたとか。ひそひそ声が通り過ぎていく。
 真上から太陽の光がふりそそぎ、磨きこまれたガラス窓を光らせている。開け放たれた扉のかたわらにあるアルミバケツにいれられた赤や黄色のチューリップが風で揺れる。店内にいるまち子はスイトピーを手にして、前に立つ白髪を薄紫色に染めた女性に笑いかけた。女性は何度もここに通っているような親しさをまち子に示す。ふいに、まち子が何かに気づいたように入口に目をむけて一歩を踏み出した。とっさに、意志とは無関係に足が店から遠ざかる。まち子の姿が消えた。老婦人のシルエットだけが窓ガラスに映る。まち子の手首から先だけが現われ、そのしなやかな指先が桃色のチューリップの茎を愛でるようにつまむ。
 ねえ、今日はパスタにしようか。そうね、久しぶりだしね。あ、見て、あのチューリップ変わった色、帰りに寄ってみようかな。制服姿の二人連れが、店内をのぞきこんで立ち止まる。いらっしゃいませ。朝よりもしっとりとした声が外に向けて響く。あ、ごめんなさい、お花が綺麗だから見ていました、また来ます。あの人の肌、すべすべして綺麗だったね。何歳くらいだろ、ちょっとわからないよね。かしましい声が遠ざかっていく。ガラス窓から射しこんだスポットライトのような光がまち子にだけ当たる。光を吸収したまち子は自身の内から輝き、金色の粒子がこぼれ落ちる。老婦人がうっとりした顔でまち子を見あげた。
 昼下がりのけだるさのなかで、数人の男が、生地見本が並べられたテーブルの周りにいる。デザイン画が描かれた紙に切り刻まれた生地が貼られていく。ずっしりと重い裁ち鋏が、しゃきしゃきと鳴る。ラメの粉が空中に舞い、静かに螺旋を描いて落ちていく。島津くん、ここ見て、生地端の部分を耳って言うんだけど、小さな穴が開いてるだろ、凸側が表だから。伸縮性のある生地は伸びる方が横、縦横間違わないように。今日は営業総出でやっているけど、明日からしばらくは新人の仕事だよ、これをやってたら生地の手ざわりや混率やなんかが自然に身につくからな。しばらくどころか、永遠かもしれないよな。どこかで、ひそやかな声が漏れる。携帯電話の着信音が響き、つづいていらいらとした男の声が相手を恫喝する。そんなに納期が遅れて客になんて謝ればいいんだよ、ペナルティーくらったら、もってくれるんだろうな。別の声が重なる。お世話になっています、えっ、まだ届いていませんか、わかりました、運送会社に問い合わせします。おい、これ、見本と色変わってないか? 今年入社した受付可愛いよなあ。そうか、いかにも男食いちらかしてそうじゃないか。生地が広げられる。なあ、これ斜行してないか。明日まで放反したらどうだ。内線電話が鳴る。隣の男が面倒くさそうに電話をとる。はい、と無愛想な声を発したあと、急に声のトーンをあげ、あ、はい、今すぐうかがいますと言い、電話に向かって辞儀をした。がたん、という音と同時に椅子が後ろに倒れてテーブルを揺らし、慌てふためいて出て行った。誰から? 電話の近くにいた男が、ちょっと待てよ、と言いながらパネルを操作した。部長席の内線だな。あんなあからさまに声を変えたら部長はよけいに怒るのにな、知らねえのかよ。馬鹿だよな、最近W社のデザイナーのお気に入りになって成績あがったからって調子にのりすぎだよ。島津くんはあのこうるさい部長にも怒られることはないはずだよ。そこここで微かな笑いがもれる。ヘタに営業にでてトラブったら上が困るしな。笑いの中に埋もれるはずの囁きが部屋中に響いた。
 地平線に落ちていこうとする太陽は最後のあらがいを見せるかのように燃え上がる。都会でも雲のないすっきり晴れた日にはビルの白壁を朱く染める。まち子の店の白い日よけも刻々と模様が変わっていった。会社の先輩女性が店に入って、二十分ほどで花束を掲げて出てきた。次に店にはそぐわない背広姿の男が入って行った。二十分過ぎても出てこない。きっとまち子は瞳を輝かせて微笑みかけ、男の意向を探りだす。花と相手を交互に見ながら、あのしなやかな指先を蠢かして花を選ぶ。顔の近くに花を寄せて吟味する。その間男はまち子の均整のとれた肢体を頭のてっぺんから下へ向かって、一ミリ刻みで見下ろしていき、想像のなかで服を剥ぎとっていく。男の生臭い息が花の清らかな匂いに満ちた空間を穢すはずだ。あたりがすっかり暗くなってから背広姿の男は蜜柑箱がすっぽり入りそうな紙袋を持って出てきた。真っ白なカサブランカの花弁がのぞいている。甘い芳香が放たれ、あたりにまち子の気配が漂う。男の頬には店に入る前にはなかったうすら笑いが浮かぶ。まち子が男に何かを施したから生まれた笑みだ。街灯のあかりで男の頬がてらてらと光った。
 まち子が現われると男を照らしていたのと同じはずの光の色が変わる。まち子の店で煌めいていた金色の粒子があたりにたゆたう。まち子には光の性質を変えてしまう力が宿っている。まち子は朝とは逆の動きでシャッターを操作する。最後にすっと伸びた指先を鍵穴や窓に向けて指し、最後に店に向かって背筋を伸ばしたまま深々と腰を折った。一連の儀式は舞台の一幕のようだった。歩きだしたまち子はパン屋の前で足をとめてガラス戸越しに笑顔で手をふる。店内でパンの残りを並べ替えていた男も右手を肩あたりまであげてちょいちょいと指を曲げ伸ばしした。その動作には、親しいものだけに許される狎れがある。再び歩を運ぶまち子の姿は、等間隔にある街灯の下で浮かんだり消えたりを繰り返し、朝来た方へ進む。まち子は地下鉄の駅へ向かう階段を軽快な足どりで下りていく。自動改札を抜けてホームに立ち、スマートフォンを取りだして画面を指先でなぞる。ときおり、穏やかな右の横顔に笑みが浮かぶ。電車が入ってきて強風がホームにいる女性たちの髪を巻き上げる。轟音がつかのまの静寂を破り、人びとが入り乱れる。まち子の肩先に男子高校生の胸があたるが、滑らかな動作で身体をずらし、顔をまっすぐに向けたまま車内に乗りこんだ。
 まち子はガラスで隔てられた闇に向かって立っている。滑らかな面に映る顔が一瞬歪み、左の目が凄みを帯びた光を放つ。身体ごとくるりとまわり、辺りをゆっくりと見渡した。大勢の人たちに混じって背の高い太った色白の男がその瞳に映る。車内の人たちはまち子の支配下にある。姫の謁見を待つ従者の群れがおどおどとご機嫌をうかがう。気まぐれな姫は飽きてしまったかのようにぷいと闇に視線を流し、黒いガラスに映る自分の顔に微笑んだ。車内は元のざわめきを取り戻す。
 五駅目で電車を降りたまち子は、階段を上り、改札を抜けて北へ向かう。桜並木を一定の速度でまち子は歩く。急に立ち止まったまち子は後ろを振り返る。闇の中に目を凝らし、何かを探す。姿勢を元に戻すと先ほどよりも歩度をはやめる。腕の動きと肩の上げ下げのリズムが乱れ、ふくらはぎの筋肉が忙しなく収縮を繰り返す。右手にある木々の繁った神社の境内は暗い。冷たい樹木の匂いが染み出てくる。まち子はいっそう早足になる。まち子の身体の中で温められた呼気がそこら中にまき散らされる。まち子は急に左に曲がり、真新しいマンションの中に吸い込まれていった。二つのガラス扉の向こうにまち子はいた。腰を屈め下から二段目、右から三つめの郵便受けを開けて中のものを取りだして胸に抱えて立ち去った。親子連れが現れた。若い女性と五歳くらいの女児がそろって、こんばんは、と言う。銀色に輝く郵便受けが並んでいる。下から二段目、右から三つめには、505と書いてあった。
  (つづく)


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