創業前夜(2)
創業前夜(1)の続き
28歳の共同経営社長と私19歳でスタートした
創業半年の誰も業界経験も無い小さなクルマ屋さん。
私からお金を借り、その後、社用車でメルセデス2台を購入した
共同経営者二人は、残念ながらその後も代わり映え無く
会社にほぼ顔を出さない日々は続きます。
今振り返れば、よくあれだけ仕事したな・・・って
思えるくらい頑張りました。
とにかく一人で切り盛りしていましたので。
で、当時、一番困ったことがお店を空けなければいけないとき。
仕入や外注先に行ったり、納車したり。。
一番困ったのが「納車」
お店を空けてしまうことはもうやむを得ないのです。
仕入時は代車などに乗って行き帰れば
外注先は次に外注先に出すクルマと入替で行けばなんとかなりましたが、
納車だけはそうはいかない。
今では店頭納車なんて基本の時代になりましたが
30年以上前は、顧客宅にデリバリーするのが当たり前の時代。
納車時は販売した車輌に乗って伺えますが(中古車なので自走OK)
お客様の家から帰るのが難題。
お店が交通の便が非常に悪いところでバスなんて
一日、数本で朝晩のみ!みたいな辺鄙な立地にお店があったので
交通機関ではほぼ戻れない。
当時19歳くらいだった私は、地元ってこともあり
まだ遊び回っている友人や後輩もたくさん居たので
「俺を店まで送れ!」って無理矢理なんとかして凌いでいましたが、
流石に毎回お願いするのにも気が引けてきていました。
ひとりで行動することを前提に全ての問題を解決するには
「キャリアカー」と呼ばれるクルマ運搬用トラックがあれば
自分でクルマを積んで、どこでも行けて、帰ってこれる!
そう閃いた私は、早速、社長に交渉をしてみます。
私「斯く斯く然々の理由でキャリアカーがあれば解決です」
私「なので購入してください」
社長「無理!そんな金ない!」
私「仕事で使うって言ってるのですよ。だったら会社来てくださいよ」
社長「俺も色々と忙しいんだ」
私「いつも友人にお願いするわけにもいかないっすよ」
私「金ない!ってベンツ2台も買ってるじゃないっすか」
私「って言うか、貸した金も返してくださいよ」
社長「モゴモゴ・・・忙しいからまた」
こんな感じの交渉を幾度も繰り返した覚えがあります。
私としては、とても理不尽な話でした。
自分は高額なベンツとか乗り回しているのに、仕事で必要だと
訴えているキャリアカーの話には取り付く島も無い。
だったら、会社来い!って話やんかい!・・・
いつにか、そんな頑なな社長の首を縦に振らせることが
ゴールになり、社長に会う度に様々なプレゼンテーションを
するようになりました。
こんな条件だったら。
これをこうしたら買えないか?
あれして、これして、それで・・・
色々な提案をしてもキャリアカー購入にOKを出しません。
いつしか、私も少しおかしくなってきたのでしょうか?
俄然、自分が不利な条件で社長を口説き出しました。
・私の名前でローンを組む(そもそも私が買うなら承諾いらんって話)
・今までの販売ノルマを倍にする
・ノルマ達成したら、私のローン返済の半額分を給料に加算する
私もガキで未熟でしたので、会社側に全くのノーリスク条件。
社長も流石にOKを出しました。
ローンも社員が組んで、ノルマ倍ってことは利益も倍、
達成でも支払の半分だけ払えば良いし、ノルマ倍ならば十二分に
お釣りが来ます。しかも未達成なら一円も払う必要が無い。
今覚えばあり得ないようなアホな条件です。
ちなみにその頃は、まだバブル期と呼ばれていた頃。
丁度二十歳になった私でも、保証人つけて審査すると
700万〜800万円のローンが通ってしまう狂った時代。
父親に頭を下げて保証人になってもらい
父「一体何を買うんだ?」
私「トラック!」
父「は!?」
ってなやりとりで、ローン審査は承認。
そして、トラックメーカーにオーダー。
今でも特殊車両なので納期は6ヶ月から1年近くは必要なキャリアカー。
当時も同様の納期でした。
クルマが納車されないのでローンの支払も始まらず
金銭的にも仕事環境的にも何も変化は無く、私は念願の社長の
縦に振らせるゴールを達成(達成?)したのと、日々の過酷な喧噪に
追われる中で、キャリアカーを購入している事実をいつの日か
記憶から無くなっていっていました。。
そんな環境でしたので、私もいつも社長に噛みついていました。
そんなある日、些細な原因で社長と口論になり
「だったら辞めろ!」
「じゃあ辞めてやる!!」
原因すら覚えてはいませんが、そんな理由で私は会社を辞めることに。
お店の売り上げもほぼ私が作り、仕入から整備、販売、アフター、雑用まで
一生懸命こなすも、何も社長達は変わること無く、貸した金も返って来ない。
そんなダークな会社のイメージが、そのまま自動車業界まで連合の法則で
同じように思え、もう絶対に自動車業界なんかでは働かない!と
心に決めて悔し涙を流しながら、帰路についたのは鮮明に記憶しています。
約1年から1年半くらいの勤務でしたが、そのような状況だったので
すぐに何か仕事を探そう!って気にもなれず、暫くフラフラ遊んでました。
「あ〜、次は何しよっかな。自動車関係以外!」ってな感じで。
そんなある日、自宅に一本の電話が鳴ります。
(当然、携帯電話などほぼ普及していない時代です)
電話を取った私は話しを聞きながら青ざめていきました。
「白井様!大変、大変長らくお待たせをして申し訳ございません」
「ようやくオーダーを頂いておりました
キャリアカーの納期が決まりました」
そう。私が半年以上前に勢いで頼んだ、あのキャリアカー発注した
トラックメーカーからの電話でした。
先述した通り、納車もされていないので支払も無いので
その頃には全く頭の片隅にも無い状態。
「お・・・俺、凄い買い物していたのをワスレテタ」
状況を箇条書きにしてみると・・・
・20歳で超高額700万円以上の買い物
・ローンで購入なので所有権留保バッチリされて一括返済しないと
所有権解除も出来ず、もちろんそんな金も無いので売却も出来ず
・キャリアカー(車載専用車)なのでクルマを載せる以外は
自動車を業にしない限りは何の価値もない
・バブル期なので借入金利もバブル!なのでサラリーマンの給与じゃ
とてもじゃないが月々の支払も厳しい金額
・一瞬、もう払えないから自己破産したろうか!と頭をよぎるも
そんな人達はある意味、自分の贅を尽くして支払えなくなるのが大半
なのに私は何の贅も尽くしても無い
・ようやく20歳になり、今から大人の仲間入りなのに欲しくも無い
キャリアカーが原因で自己破産なんてもっと悔しい
(あくまでも自身が注文したのですが)
そう、私の残された道は・・・
このキャリアカーを使って、自動車しか積めないトラックを使って
絶対にもう二度と関わりたくもなかった
自動車関連業を創業する以外に道がありませんでした。
知恵がついた今ならば、こうすれば回避できたのでは?なども
ありますが、結果、このキャリアカーが無ければ創業もせず
今の自分も無い訳ですからね・・・。
それが1991年の春の話。
そしてその年の5月1日に個人事業として
メーカーズプロジェクトという屋号で事業を創業したのです。
なので、私の創業時の志は、多くの創業者のような
「●年後にはこうなって年収をこのくらいに!」
とか
「将来は会社をこうして社員を増やして」
とか
「稼いで楽な暮らししてやるぜ!」
などの想いは、ほぼ無い状況で
「早くローンを返済して、一日も早く嫌いな自動車業界を辞めてやる!」
が創業時のビジョン(?)でした(笑)
とは言っても、借金以外に財産があるわけでもなく
マイカーローン&キャリアカーローンに保証人になってもらった親を
これ以上頼るわけにもいかず、出資してくれる人もいるわけでもなく
お店を構えての事業なんて、とても出来る状況ではありません。
今の時代ではもう出来ない領域でしょうが
当時は「ブローカー」という呼称で、店舗や在庫を持たず
知人からクルマの注文を賜り販売する。
店舗コストも在庫コストもない分、薄利で販売できるを謳い文句で
ブローカーで生計を立てている方々も存在した時代。
例に漏れず、いや、私はそれしか選択肢が無かったので
店舗も在庫も保有しない(出来ない)ブローカーとして
創業をしました。
ただ・・・キャリアカー保有しているブローカーは会ったことも聞いたことも
私以外は居ませんでしたけどね(笑)
最後に余談になりますが、創業のきっかけになったキャリアカーですが
「三菱ふそう」というメーカーです。
実は今でもうちのキャリアカーって全部、三菱ふそう製って知ってます?
他のメーカーのほうが条件的に良かった時もありましたし
映画にもなったタイヤ脱輪事件で大きなリコールで信用失墜した事も有りましたが
ずっと一筋で購入してきました。
このキャリアカーのお陰で今の自分があると思うと、なんとなく浮気できなくなってしまったってだけの話なんですが・・・・
次回は創業期のブローカー時代のお話を書きたいと思います。
長文閲覧ありがとうございました。