創業期ブローカー時代
創業前夜(2)の続き
社名の由来
勢いとやらざるを得ない理由で1991年5月1日
個人事業として自動車販売業メーカーズプロジェクトを創業しました。
社名の由来は、自動車が嫌だったので、それ以外の色々な
業務(プロジェクト)を創り出す!(メーカー)
でもメーカーズという複数形にしたのは、辞めるのがゴールと言いながら、どこかで会社を大きくして誰かと一緒に夢を追っていく!という妄想がその頃からあったのかも知れません。
ブローカー時代
とにかく、地元で多少人脈があっても縁故知人だけでは成り行かないことは理解しており、とにかく人脈を広げることを優先に色々なところに顔を出しまくりました。
店舗も在庫も持たないブローカー。
なので紹介しか源泉はありません。
いきなりクルマを買ってくれることはありません。しかも若干二十歳の若造に数百万円もするクルマを依頼するなんていうのは当然、容易ではありません。
なので、とにかく知り合いを増やし、何か役に立つことをして
何かあったときに私に声を掛けてもらう。
これしかありませんでした。
有りと有らゆる場面に出没し、顔を売り、何か役に立てることを探す。
何かイベントあれば顔を出し、
何か人が集まると聞けば顔を出し、
何か困っていることがあれば助けにいく。
ある意味、営業の原理原則を学ばざる得ない状況でした。
マリンスポーツ編
印象的な顧客開拓(?)手段として
当時、マリンスポーツのジェットスキーをしており
インストラクター的なことをしており、その縁を通じてマリンショップが集客のためにイベント開催。
バナナボートなどお客様を乗せてをジェットで引っ張ります。
そのジェットの運転手を安いバイト代金で引き受けます。
マリンショップは何らかのマリン商品(ジェットスキーなど含む)を売るのがゴール。
でも当時は今の時代にあるような係留や保管できる施設はほぼ存在せず、
みな自家用車にトレーラー付けて引っ張るか、トラック(ハイラックスWキャブ的な)の荷台に載せてジェットを運搬するのがスタンダード。
ジェットを購入されたお客様に、それを運ぶ四駆を私が売る。
みたいなチームプレーでクルマを販売させてもらっていました。
ナンパ編
とにかく人との出会いを無限大に広げたく、またちょっと下心もあり毎晩ナンパしまくってしました。
昔はこれ普通でしたので、ナンパしない方がが損!って勢いで。
それで仲良くなったオネーチャンにクルマ売っていました。
とにかく売れるチャンスは何でも作る。
その人が買わなくても如何に紹介貰えるか?
今でも言ってますが、ナンパは振られる前提のスポーツです笑
この経験は初めての人と話すのに全く動じない、いや、どう話せば私の話を聞いてもらえるか?足を止めてもらえるか?など研究し実証する本当に良いフィールドでした。
コミュケーションスキル向上には絶好のフィールドでした笑
マルチ商法編
決して怪しい商品を売っていたわけではなく、あるマルチ商品販売の集団にいつも近くに居たので、向こうからみたら同じメンバーとしか思われてはなかったと思います。
何が目的か?と申しますと・・・。
まず、マルチ商法で時代も時代、
超怪しい商品を高額に売るような怪しい集団です
(表現が無礼ですゴメンナサイ)
NASAの宇宙服の素材で開発された布団とか・・・
ガンが治った奇跡の水が作れる浄水器とか・・・
もう怪しさ満点です。
で、それを売るメンバーも一括千金を狙った、ちょっとスレてる奴ら。
ビジネスモデルはシンプルで一定期間中に一定の売上があれば会員グレードアップして、販売時や孫が売った取り分が増える。
なので目の色変えて売ろうとするわけですよ。
しかし、そんな怪しい商品、簡単には売れません。
で、どうするかと言うと期日前にメンバーが自腹で購入しちゃう訳です。
売上を作るために。
その後に自分で買った商品を捌けばいい!って発想です。
なんか初期の未使用車が生まれる理由みたいですね笑
でも、そんな怪しい商品、簡単に売れるはずないです。
あと、一括千金を狙う私とそう年齢も変わらない若者が、
自己購入するお金なんて普通はありません。
じゃあ、どうやって自己売上資金を調達していたかと言うと、
自動車金融を利用しておりました。
わかりやすく説明すると自動車の質屋さん。ですね。
自動車担保でお金を借りるって仕組みです。
当時は若者が大借金しても良いクルマを乗る時代ってことは説明しました。
ここに集まるメンバーも例に漏れず、みんなそう。
なので、
1)愛車を担保にお金を調達
2)そのお金で自己商品お買い上げ
3)後で買った商品を販売
4)回収したお金を金融屋に返して愛車を返して貰う
こんな仕組みです。
1)と2)までは簡単に進みますが、
3)は容易では有りません。
でも、もう一括千金で洗脳されてまともな思考回路は働いてなかったのかも知れません。
当然3)で代金回収できないので4)の返済が出来ません。
自動車金融は質屋と同じですので、期日が定められており
その日までに借りたお金を返済できないとクルマは取り上げられます。
今は知りませんが、当時は流通価格300万円ほどの車両で貸してくれるお金は1/3程度の100万円ほど。
つまり300万の価値のクルマでも100万円ほどしか借りられず、
その100万円が返済できなければ100万円でそのクルマは金融屋に取り上げられてしまいます(当然ではありますが)
だったら売却したら高く売れるじゃないか!?
その通りです。
でも彼らは売ることが目的ではなく一時的に資金調達して
また商品販売後に資金返済して愛車を手元に取り戻す算段なのです
(かなり甘い計画ですが)
私はこのグループに出入りし、誰が金融に入れて調達し、いつ期日なのか?の情報を入手しておりました。
みんな、マルチは副業でやっていましたので、私も本業は自動車販売ということは名乗っていました(メンバーではありませんが)
なので、金融に入れたメンバーには
「何かあったら声かけてね」と先に声掛けしておきます。
で期日の1週間ほど前に確認を入れます。
「●●さん、あと一週間後に金融期日だと思うけどお金大丈夫っすか?」
この段階では、ほぼ威勢の良い回答で
「大丈夫!」
「お金の目処はついている」
「商品がもう売れそう」
なので、「良かったです!」といった感じで回答。
さらに期日1日前に連絡すると
「やばい」
「お金が集まらなかった」
「誰か貸す奴居ない?(もしくは貸して)」
まぁ、そりゃそうですよね。NASA製素材の布団、
●●万円が簡単に売れません。
ここで90%の方はそうなっています。
10%は親が助けるケースです。
でも90%は、そもそもマルチに手を出している時点で親からも見切られている感じの方が多く、親御さんからの助けはありません。
そこで私が提案します。
「●●さん。明日100万円用意出来なければ愛車は持って行かれます」
「そこで私が130万円で買い取ります」
「100万円は金融に支払う。●●さんの手元には30万円残ります」
「何もしなければ愛車は無くなり借金だけが残ります」
「どうされますか?」
ほぼ、このパターンで私に売却を依頼されました。
私も足元見てる商売ですが・・・
数ヶ月に1〜2台の割合での買取でしたが収益的にも大きく
マルチ集団のまるでメンバーのように一緒にいることで、このような機会を得ることができた記憶です。
運転資金問題
これは創業時は大変でした。もちろん資金があるわけでもなく
銀行が貸してくれるわけでもない。
じゃあ、どうしたかって?
クレジットカードでキャシングしまくりです
(よい子は真似しないように)
当時、時代はバブル。みんな狂ってます。
カード会社はカード発行与信を下げまくってバンバン発行します。
今では何枚も申し込みしたとすれば情報が繋がっていますので「怪しい」となり、そんなに多くのカード保有はできないでしょう。
しかしバブルの時代、そんなの関係ねぇ!って時代です。
なので私は20枚から30枚のカードを保有しておりました。
1枚につき、カードキャッシング枠が20万円から30万円ほどありましたので
30枚のカードで30万円借りると900万円調達できます。
(とってもお高い金利なのでよい子は真似しては絶対にいけません)
当時は納車前のローン先付けも許されていた時代ですし、
お客様から現金払いの場合は集金したお金を直接、信販会社の窓口に持っていって支払していました。
引き落とし日まで待っていたらとんでもない金利取られるからですね。
でも、そんな運営していたら当時の税理士先生から
「そんな資金繰りするなら商売辞めたほうがいい」と説教されていました。
でも
「そうするしか手段が無いんだからしょうがないだろ!」と楯突いてた
粋がっていたガキでもありました・・・。反省。
保険会社研修生(IP)
実はブローカー3年間過ごした中で、2年間は保険会社の研修生をさせて頂いた経緯があります。
前職時代の代理店担当とは独立後も懇意に
していた経緯もあり、声を掛けられました。
まだ保険会社もバブル余波で研修生を多く採用し、
プロ代理店育成を各社競っていた時代。
でも、すでに独立開業をしていた私は、
もう研修生は出来ない旨、お断りしました。
恐らく締め切り間近で、なんとかしたかったのでしょう。
保険会社担当も食いさがります。
でも、研修生は朝、支社に出社し夕方に帰社。
日によっては日中も支社での業務なども生じるので、
私には無理と再度お話するも
「朝だけ来て貰えれば、夕方は来なくてよいって支社長に承諾得てるから」
「日中の業務も最低限部分だけで良いから」
などなど、あり得ないような条件を提示され、
そこまで言うのなら・・・で
めでたく●●海上火災保険の正社員として3年間の研修生プログラムに参加することになりました。
この期間は、●●海上火災の正社員扱いで、給与の他、ボーナスなども支給されます。
挙積はノルマありますが、販売もしていたので、
そこは苦も無くクリアできるレベル。
朝、ちょろっと顔出すだけで給与も賞与も貰えて楽勝!って思っていたのもつかの間・・・
そんな蜜月は永くは続くわけはありません。
そんなあり得ない特例を出した支社長はすぐにどこかへ異動になり
担当者も異動になり、事情を知っている社員も減り
新しい支社長は「なんだあの不良研修生は?」となる。
当然、そんな特例で入社させたなど引継されることもなく、
単なる不良研修生レッテルが貼られる始末。
当然、入社条件を主張するも、早期卒業という名目のクビ!
でも2年間、在籍させて頂いた経験はその後に大きく生きます。
特に無形商品である保険を売る難しさを学ぶことで、有形商品の車を売ることが容易に思えてきましたし、やはり専門知識や組織はどう形成されているのか?
今までの私ならば理解し得なかった知識や経験を学ぶことが出来ました。
また先述のクレジットカード乱発事件も、ある意味、勤務先は大手損保会社ですので
バンバン発行して頂けたのかも知れません。
でも、本当に興味ないところは不真面目で
自分の所属している部課は「一般市場部(いっぱんしじょうぶ)」という名称だったのですが、平然と「いっぱんいちばぶ」とか言っていたアホでした。
創業期の不安定な2年間をWワークが出来たことは、
経営的にも結果として良かったです。
でも、先述の通り、ブローカー時代の3年間は、人と出会うのが仕事!
なので、遊んで遊んで遊びまくって人との輪を広げていました。
なので徹夜で保険会社朝礼参加なんて当たり前。
ある意味、元気よく過ごしていた時期でもありました。
三菱ふそうオンリー
とにかく格好なんかよりも泥水呑んででも、なんとか何もないゼロから
食らいついて生き延びた3年間。
これが私のビジネスのベースにもなりました。
当然、みんな高級車乗り回している時代。
良いクルマ乗ってないとデートも出来ない時代。
私の愛車は三菱ふそう製キャンター積載車ですからね笑
クルマでデートとか無理です。
どうしてもクルマが必要なときは友人の車借りてました。
だからナンパもクルマではしません
(いや、出来ませんねトラックですので)
歩きでナンパしてました。
お金持ちの友人がすごい高級車とかで
ナンパしたら簡単にナンパ出来るのですよ・・・
羨ましくも感じましたが、これは彼の実力でなく車の実力!
俺は自分の力で、自分の足でナンパしてやる!って・・・
悔しいからそう言っていましたね。
しかも、そこ力説するところでも無いのですけどね・・・
やめるはずが店舗出店?
そんなブローカー時代が3年を経過し、ローンも残り2年。
このままブローカーで終わりそうな
気配を感じていた1994年。
また大きな変化が起こる出来事がありました。
その出来事で、あれだけ辞めたかった、あと2年で解放されるはずの
キャリアカーの呪縛から逆行する「店舗出店」となるのです。
この話は次回にでも…
ちなみに、私が退職した車屋さん。
案の定と言ったら失礼ですが半年後に店を畳みました。
もちろん、その時はお金も戻ってきていません。
お金を貸した社長の弟である、南社長。
PC関係の専門学校に行ったのにその後の流れで
車検代行社(ユーザー車検代行)を親父さんとする羽目に?
まぁ親父さんは名ばかりで全く関与はしていませんでした。
でも、自分なりの正義はあったにせよ離職後に廃業したのも事実。
自業自得とは言え、関係のない弟の南まで影響が及んでいることに、
なにかやるせなさを感じていました。
ずっと可愛がっていた後輩でしたので。
その当時の南常務の車検事務所が東区名島にあり
毎週木曜日のオークション終了後に彼の事務所に立ち寄り
木曜発刊のヤングマガジンを見るという名目で様子を伺っていた日々は数年間続きました。
私が20歳〜23歳までの出来事でした。