[書評] Slowdown 減速する素晴らしき世界


 「世の中のスピードは加速しているように感じますか?」という質問に「いいえ」と答える人は皆無だろう。論理的には答えにくいが、直感的にはそう思える。だが「加速の時代はすでに終わり、ほとんどすべてのことが減速している」とオックスフォードの地理学者、ダニー・ドーリングは語る。

本書のタイトルは『減速する素晴らしき世界』だが、原題には「素晴らしき世界」という言葉はない。
”The end of the Great Accelation”とあるので「大加速の終焉」とでも言うべきだろう。翻訳者が「素晴らしき世界」とした理由は気になる。「加速は良くない」という感覚を「減速は素晴らしい」とそのまま裏返しにした印象を禁じ得ない。
本書の構成は以下の通り。

本書の構成

第1章 この先に待ち受ける未来
第2章 ほとんどすべてのことがスローダウンする
第3章 債務 ー減速の兆し
第4章 データ ー新しいものがどんどん減っていく
第5章 気候 ー産業活動、戦争、炭素、カオス
第6章 気温 ー破滅へと続く例外
第7章 人口動態 ー人口に急ブレーキがかかる
第8章 出生数 ー過去最大のスローダウン
第9章 経済 ー生活水準が安定する
第10章 スローダウンの時代の地政学
第11章 大加速化が終わった後の暮らし
第12章 人 ー認知とナマズ
エピローグ パンデミック

第1章と第2章は概要で、第3章から第12章が個別の事象になっている。「すべては減速している」ことが、それぞれのテーマで繰り返し論証される。例え話や物語が延々と続き、グラフ化されたデータを見ても一目瞭然とは言い難いものもある。
統計は普通の時系列のグラフでは示されていない。ほぼすべての統計データは「位相ポートレート」で表現されている。このグラフの見方については、本書でも巻末に独立した説明が用意されている。

位相ポートレート

x軸に変化率を、y軸に積算量を置いて、時系列の値をxとyの交点にプロットする。点と点は直線ではなく、ベジェ曲線で結ぶ。このような処理をすることで、小さな変動は平滑化される。こうして変化の度合いが強調された、3次元(変化率・積算量・時系列)のグラフができあがる。

本来は複雑なデータを視覚的に表現できるものだが、本書の場合、グラフの点の描き方や線の幅と色に誤解を与えるような処理がされている(統計の専門家が指摘しないのが不思議だ)。

位相ポートレートのモデルとして、振り子の動きを例に取っている。引用されているwikipediaの記事は、運動中に外からの一切干渉を受けない理想的なモデルについて解説したものだ。

振り子を高い位置にもちあげて、手を離す。外から力が加わらないから、当然いつかは静止する。確かに描かれる図形はらせんを描き、数学的な美しさがあるが、あくまで物理モデルであることを承知しておく必要はある。位相ポートレートの説明として、適切でない可能性がある。

現実の事象は動的で(加速または減速させる)外部の事象の影響を受ける。にもかかわらず、ドーリングの位相ポートレートは「いつかは減速する」ことを前提としている。位相ポートレートは魔法のグラフではないし、減速は良いことと楽観視しすぎていないだろうか。

世界は減速しているのか

世界の減速を繰り返し明言する一方で、減速の理由や要素は十分に示されていない。
それぞれのテーマで、データを位相ポートレートに変換して、その特徴を読み解く流れが繰り返される。個別のテーマに絞るかわりに、他の事象との関係性は深く論証されない。

そこで、減速の反対にある加速について、少し考察を加えてみる。加速してきたサンプルとして「技術」「経済」「人口」を、減速しているとは言えないサンプルとして「気候変動」をとりあげよう。これを構成と照らし合わせてみる。

「技術」には第4章(データ)が、「人口」には第7章(人口動態)と第8章(出生数)が、「経済」には第3章(債務)と第9章(経済)が対応することがわかる。「気候変動」には第5章(気候)、6章(気温)が対応する。

人口と出生率は減速傾向(出生率は正しくは減速・減少傾向)にあり、経済もおそらく減速傾向(減少傾向かどうかは議論の余地がある)にある。すべてが減速しているかについては、問題は気温・気候が減速傾向か、技術が減速傾向かどうかの2つを考える必要がある。

減速を現象としてとらえる

ドーリングは、気候・気温は「例外で減速傾向にない」ことを明らかにしているが、気候の異変と気温の上昇が、人口と経済に与える影響(おそらく2つを減速させる可能性がある)について、十分には考察していない。人口増加の鈍化は社会の成熟や経済発展にともなう「自然な現象」と言うこともできる。成長から「成熟」へとは言えるが、これを「減速」と言うことには抵抗がある。

技術については、技術の進歩を変化量や変化率のみで読みとろうとすることに限界がある。生成AIの進展は新たな活動の場を切り拓いている。質的な変化は量的にはとらえられないので、量的には「鈍化」としてあらわれているかもしれない。

読むべき本か、価値はあるか

本書の意義は、複雑な事象をできるだけ単純化して「すべてのことが減速している」と指摘したことにある。世界が一見すると加速しているように見える現代において、実際にはほとんどの面で減速しているという構図は、パラドックスに近く、衝撃的でもある。アプローチに関して言えば、量的な変化を読み取る位相ポートレートの手法は注目に値するが、残念ながら背景にある多様な原因や影響については十分とは言えない。

エピローグに「パンデミック」として各国の対応を示している。コロナ禍派文字通りの「ロックダウン」で、あらゆる方向で減速した。そうした意味では、減速と成熟の時代はすでに人々の視野のうちにあるはずだ。

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