「総長対話」の感想
はじめに
さて、私は先日6/21に駒場における「総長対話」パブリック・ビューイングに参加してきた。いかなる運動の主催でもなく、半ばお客さん気分で参加し始めた私ではあるが、なんだかんだ6/6の本郷で行われた全学集会にもバイトを調節して参加したし、6/20の議員会館の院内集会もに雑用として手伝いに行ったし、総長対話前日の全駒集会にも顔を出し、今度はヘタクソなスピーチもしてみたりと、平均的な東大生よりはこの問題に関心を持ち、学費を自ら負担し、値上げされれば博士進学時に年間10万円の余計な出費を被る当事者の一人として、少しでも反対運動の成功に寄与しようとしてきたつもりである。
そしてまた、私は一応、「権力」について論じたある思想家を研究している大学院生の一人として、「権力」というものの作用とそれに対する「抵抗」についての多少の見解を有している気になっている。「権力」の専門家ワナビーの見た「総長対話」ということで、見る人が見ればあまりに素朴な記述の数々であろうが、ご笑覧いただきたい。
「総長対話」における諸質問
さて、まず総長対話によって学部生6人、院生7人から示された質問の種類について確認しよう。私は「対話」中ヤジを漏らしたり、「検討」を連呼する総長に呆れ顔のリアクションを連打するのに気を取られ、愚かにもメモを取っていなかったので、本稿では、下のリンクにあるフジヤマ氏のメモを参考にしたいと思う。
要約すれば、以下のように分類できるだろう。
学1:奨学金の拡充の問題点
学2:決定プロセスの問題点
学3:決定プロセスの問題点
学4:財務状況と財源確保について
学5:Diversity and Inclusionとの矛盾
院1:総長の態度についての指摘、運営交付金の現状から言えば値上げはまた続くのではないか?という質問、決定プロセス透明化の要求
院2:親との関係の悪い学生への対応、申請手続きの負担について
院3:申請手続きの負担について
院4:値上げする場合の決定時期について
院5:財務状況と値上げの正当性について
学6:社会権規約, D&Iとの矛盾
院6:国家と大学の関係について
学6:決定プロセスの問題点
院7:値上げの用途についても透明化要求
これらは、いずれも重要な論点を含むものであり、実質的な利益について総長に問いただすものであった。しかし、みなさんご存知の通りほとんどの回答は「検討する」である。「検討」ばかりして確約しないこと自体を批判し、某国総理大臣と重ね合わせて揶揄することは実に容易であるが、もう少し深く考えてみたい。
「検討」とは何か?
そもそも、この「検討」とは今般の学費値上げ問題の当初から当局が一貫して示してきた身振りである。引用は長いので読み飛ばしても構わない。
「検討」という語の周囲に我々はどのように配置されているのだろうか?
次のことが言えるだろう。①「検討中」のものは決まっていないので知らせることはできない。②「決定した方針」、あるいは「検討結果」になってようやく知らされうる。③「検討案」は「対話」の中で学生に共有される。「これがなんだと言うのだ、当たり前のことを並べやがってこの人文山師め」と憤る読者もいるだろうが、本当にこの三点を理解していれば、「総長対話」において「検討する」以上の回答が期待できるはずもない。この「検討」に関する語法において、「検討」の主語、検討行為の主体は常に総長および大学当局であり、「検討」を「決定」に移行するあらゆる権限はやはり総長および大学当局によって独占されている。我々学生は「検討結果」を通知される立場にしかなく、意思決定に参画する権利は全く認められていない。「総長対話」とはいかなる決定にも付されていない「検討中」のものについて学生が「意見」を表明できるだけであり、その「意見」は手続上の意味を一切持ち得ない。
こうしてみると、単に「検討」というのは一般的な、優柔不断さの象徴であり、「確約」の対義語であるような語、というだけでなく、この言葉自体が学生を意思決定から排除するレトリック、文法の総体の要になっていることがわかる。
何を大袈裟なと思うかもしれないが、ここで我々はそもそも「総長対話」や「対話」について、総長がどのようなステートメントを発していたか確認しなければならない。
「対話」とは何か?
まさに伝説の回答であるが、ここに全てが言い尽くされていると言ってよい。①「対話」によって多様な意見を理解し合うが、決して「交渉」ではない。②理解し合うことを目標にするが、最終的には理解が得られる必要はない。
ここでのポイントは「交渉」という語である。「交渉」とは年に一度学生の利益を代表して自治会が大学当局に対して要望を提示する「学部交渉」にも使われる語であり、「学生」が大学当局と行う政治行為である。この根拠は、東大確認書(1969)と東京大学憲章(2003)に求めることが一般的である。
「運営への参画」と「固有の権利を持って大学の自治を形成」ではトーンが異なるものの、いづれも学生が政治的主体として学内自治に参加することを認めるものと解釈できるし、これらの規定が実現された一形態として「交渉」は存在するのである。
従って、「対話」であって「交渉」でない、ということが含意しているのは「総長対話」の非政治性であり、自身の利益に関する学生の直接的な決定への参加や大学当局との合意の可能性をあらかじめ取り除くということに他ならない。この「対話」の排除的性質は前段に見た「検討」のレトリックと強く響き合っているように思われる。「検討」とは「決定」ではないものであり、「対話」とは「交渉」でないものではないか?つまり、「検討」と「対話」は学生を決して政治的主体として認めず、あらかじめ意思決定のプロセスから排除する強力なレトリックとして機能しているのである。
「何を当たり前のことを偉そうに、これだから人文系は、稼げる大学には君みたいなのは不要だよ」という声が聞こえてくるようだが、この前提を確認しなければ我々学生が「総長対話」でどのような陥穽にはまったのかは明らかにならない。
「総長対話」における質問検討
ここで、もう一度質問リストを見てみよう。
学1:奨学金の拡充の問題点
学2:決定プロセスの問題点
学3:決定プロセスの問題点
学4:財務状況と財源確保について
学5:Diversity and Inclusionとの矛盾
院1:総長の態度についての指摘、運営交付金の現状から言えば値上げはまた続くのではないか?という質問、決定プロセス透明化の要求
院2:親との関係の悪い学生への対応、申請手続きの負担について
院3:申請手続きの負担について
院4:値上げする場合の決定時期について
院5:財務状況と値上げの正当性について
学6:社会権規約, D&Iとの矛盾
院6:国家と大学の関係について
学6:決定プロセスの問題点
院7:値上げの用途についても透明化要求
さて、我々は単に質問内容を「検討」されるだけでなく、本来は我々「学生」の階級的利益についてなんらかの政治的応答を総長に要求したかったはずである。そのためにはこのお粗末な「対話」の外に出なければならなかった。なぜなら、この対話が「交渉」でない以上、いかなる要求に対する回答も「検討する」で終始するに決まっており、ここで学生の質問はあくまで参考意見の地位でしかなく、大学の自治という観点から擁護される「学生」という政治的主体、アクターによる「交渉」とはまるで意味が違うからだ。「対話」という我々にとって大変不利な領域を脱するには、そもそもこの「対話」について問い、この「総長対話」というフィールドそのものを動揺させなければならなかった。
何度か示された決定プロセスの不透明性を非難する質問はこの趣旨に近い。しかし、例えば学部生2との応答を見てみよう。ここで引用が増えすぎることを避けたいので、ぜひ読者にはフジヤマ氏のメモを違うウィンドウから見れるようにしてほしい。
学部生2は果敢にも、値上げの決定がトップダウンであって、学生の意見を聞かぬまま強行しようとしている点を批判している。東大確認書にも言及していることは実に立派である。それに対して、総長は意見を聞きながら検討していること、そして実際に今対話しているのだから学生の意見を聞いていないわけではないという趣旨の反論をしている。
ここに総長の実に巧妙なレトリックがあることに気づかねばならない。ここで総長は、この対話がいかなる政治的意味も持たないことを隠蔽している。(あるいは本当に対話が大好きで、気づかず狡猾になっているのか。)学生の意見を聞きはしたところで、当事者としての利益に関する集団としての直接的な交渉を受け入れる気はさらさら無いのだ。
学部生2はその後応答の中で、対話と交渉の場を設けるよう要望している。これに対して総長は検討する、と逃げる。ここで可能なら「対話」ではなく「交渉」するよう強く要求すれば良かったのかもしれないが、そこまで求めるのは酷であろう。公衆の面前で緊張しながらよく頑張ったと敬意を表さねばならない。
次に、学部生3の質疑を見ても同様の問題点が指摘できる。検討プロセスに学生が入っていないという批判はこの「対話」というレトリカルな政治技術によって簡単に反論されてしまう。
ここまで、検討プロセスという「そもそも論」の観点から批判した点は良かったが、「総長対話」というフィールドの持つあらかじめ設定されたレトリックを解体できず、「交渉は考えていない」という本音すら引き出すこともできなかった。しかし、実は最後の最後で、学部生6の割り込み質問がかなり良い線を行っていたのだ。
学部生6はそもそもなぜ報道が先行したのか問うている。総長は、検討中の案件について報道が先行して困惑していると応答しているが、これはかなり白々しい回答に思われる。というのも、文学部の教員が証言するように、6月中の経営評議会、教育研究評議会、役員会で決定の上、7月中に既定路線のまま告知というスケジュールが当初考えられていたことは相当確からしいからだ。大方、東大生も今はノンポリに違いないと侮り、威力偵察のつもりでリークしたらひどい目にあったので筋書きを急遽変更したというのが内実であろう。学部生6には拍手を送りたい。
そして、学部生6は団体交渉や自治会と交渉するか聞いている。これも秀逸であるというか、本当はこれが最大のポイントなのである。総長は「交渉という形になるかわからない」と言っているが、「交渉という形にするつもりはない」というのが本音であろう(というか、当日私の耳にはそう聞こえた)。ここで東大確認書の意味を問いただされた総長は、「学生の声を聞く必要がある」と解釈を述べているが、「交渉」するとは決して語らない。さて、ようやく重要な情報を引き出せた。学部生6にはハーゲンダッツを奢りたい気分である。この質問が最後から2番目の質問になってしまったことが悔やまれてならない。
「対話」から対話へ
おそらく、本来、重要だったのはそもそも「対話」などというものが排除の方便でしかないことを最初に堂々とぶつけてやることである。
この投稿などをみる限り、本気で総長は「対話」が好きであり、「対話」という語の道徳的で民主的な響きを本当に愛していて、この姿勢はかつての同僚たちからも評価されていたのだろう。しかし、レトリックとは実のところ、全く無意識に本人の意図と関わりなく遂行されうるものだ。多くの人は「総長対話」における総長の態度が侮蔑的で腹が立ったとツイートしていたが、私はそうは思わない。総長は学生の質問をよく聞いて的確に応答しようと振る舞っていたし、きっと彼はすこぶる善人なのだろう。不正選挙の噂があるという反論もあるかもしれないが、不正選挙をしてまで選ばれるのは人間関係が上手で、集団をまとめる長としての器があるからだ。しかし、このような善人がまさに善の意識のもとで、善行を遂行しながら、うまく何かの言説を排除してみせることはよくある。
このような言葉の構造に折り畳まれた排除を指摘するためには、相手の意図や思考、精神を問うだけでは不十分である。その構造を目の前で解体して見せなければならない。だから、まずあそこで我々が最初にすべきだったことは、
①「対話」と「交渉」の意味の違いを確認する。
②「総長対話」が「対話」の形式をとることで、院進後に新価格が適用され、実質的な利害関係を有する当事者といえる数千人の学生を、「交渉」の相手とせず、排除する構造を有していると指摘する。
③そもそも学費値上げに際して、「学生」の同意を必要と考えているか、尋ねること。
④実質的な利害関係を多くの学生が有するにもかかわらず、自治会などの「交渉」を拒否し、形式的な「対話」に固執する当局の姿勢は、東京大学憲章や東大確認書に違反するのではないか、と尋ね、「交渉」を要求すること。
の四点だったのだろう。これらの質問をしていれば、「総長対話」は「対話」から対話になったかもしれない。なぜなら、少なくとも総長は、この③のYes/Noでしか答えられない質問によって、ようやく、良心から学生と「対話」を試みる総長という属人的性格を離れて、「学生」と権力関係において対置される「大学」に定位されるし、ようやく学生たちも「学生」という大学の自治における政治的主体として定位されるからだ。「総長対話」は曖昧な意味の覆いを剥がされ、「交渉でない何か」という本質を確認した上での対話が開始される。政府と市民、資本と労働者、のような政治的二項対立を確認しなければ、「交渉」というフィールドは生じ得ない。見せかけの「対話」による調和的関係ではなく、「交渉」を要求する者と「交渉」を拒否する者、権限を持つ者と持たざる者という対立的な立場が確認されて初めて、ようやく「交渉」に先立つ前提が成立するのである。
(補足, 6/25)
院1として発言された伊藤氏のTwitter(新称: X)における指摘を踏まえ、捕足する。もちろん質問③に対する想定回答は「学生の同意は必要ない」である。そして、④に対する想定回答は「東大確認書や東大憲章が規定する学生の運営への参画は、今回の「対話」のような場で意見を収集することで保障されているので問題ない」であろう。しかし、これで「手詰まりだ」と思う必要はない。理由はいくつかある。①学生の前で、このような発言をさせれば、「対話」の根本的な無意味さが周知される。実は自治会の「交渉」要請を当局はずっと拒否しているのだが、学生はあまり知らないのである。(戦術的観点)②少なくとも、これらの回答は総長による政治的「判断」であり発言自体が行為遂行的な「決定」行為をなしているので、「意見」-「検討」モデルに回収できない価値を有していると言える。③「判断」に対して我々はその判断が誤りであると指摘する余地がある。ここで、たとえば「東大生の学部生半分は院進し、再入学する以上、直接的な利害関係を有している」であるとか、「当局の決定が持続的な効力を有する以上、「学生」という集団として未来の学生の利益について、当事者性を有している」といった指摘を行うこともできるだろう。
終わりに
あまりに長々と駄文を弄してしまった。だが、どうか理解してほしいのことは、「対話」などほとんど意味を持たず、我々学生たちは常に「交渉」を求めねばならないということである。「交渉」においてのみ、「学生」は主体的に権利を要求できる。そして、この交渉を可能にするのはおそらく代表権を持った自治組織だけである。したがって、長期的には各学部の自治会・各研究科の院政協議会を再建しなければ、「対話」という与えられた枠組みの中で「意見」を述べることしかできない。
国立大学が法人化されてから、もはや教授会も「意見」を申し立てるだけの組織に格下げされた。1969年の東大確認書において批判された教授会も自治の主体ではなくなっている現在、学生が自らの利益について当局と「交渉」する権利はどれほど自明のものといえるだろうか?いや、そもそも大学から「政治」は消えつつあるのではないか?
安田講堂前で非暴力の抗議活動をしている学生を当局が30人の棍棒と盾で武装した警官隊をして追い払わせた(ようにしか見えない)総長対話後の事件は、ほとんど大学にもはや「自治」や「学内民主主義」など存在せず、そこにあるのは経営者による「ガバナンス=統治」だけであることをよく表している。読売新聞の「東大に学生侵入」の見出しは馬鹿げていたが、筋は通る。要するに「困りますお客様」ということだ。行きつけの町中華があっても厨房の前で「炒飯が900円になるなんて何事だ」と騒ぐのはおかしい。きっと学費の値上げも「物価高のためご理解いただければ幸いです」とマジックで適当な紙に書いて貼っておけば許される日が来る。
この「政治」の縮減に抗って、むしろその地平を切り拓き、「交渉」を行うためにはどうすれば良いのか。みなさんもぜひ一緒に考えていただきたい。
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