瓦礫の中で僕は不謹慎にも「映画みたいな世界」と思ってしまったんだ。

突き上げるような「がんがんがん!!」という揺れにびっくりして飛び起きて、時計を見ればまだ朝の6時前。

O型のご多分に漏れず、本や洋服など散らかしっぱなしの自室は、それでも

「え、オレ、こんなに散らかしたっけ?」と寝ぼけ眼で確認する。

よく見ると、壁際の本棚が10数センチ前に

「歩いてた」

ともあれ、階下のリビングに降りTVをつける。

ヘリからの映像で、門徒厄神の高架道路が見事に割れて落下している。

!!!!!

どうやら大変な事態らしい。

同居する母も起きてきて、TVの状況を観て怯えている。

当時は僕は大阪の北の方に母と一軒家で2人住まい。

家内は揺れの影響で色々散らかってはいたものの大きな被害はない模様。

とりあえず室内を二人で片づけて、近隣の親戚や友人に電話するもすでに固定電話はパンク状態で繋がらない。当時は個人で携帯電話なんて持ってる時代ではないので、八方ふさがり。

ともあれ当時某企業のサラリーマンだった僕は「会社に行かねば」と。

今では「社畜」と言われるかもしれませんが、20数年前までは会社勤めの人間はだいたいそういう「脳」でした。

会社に電話するも勿論つながらず、、ただ、大阪本社のその会社は、東京にも拠点を置き、東京支店と大阪本社は「内線」繋ぎしていることを思い出しました。内線ならホットラインです。急いで東京支店に電話したら奇跡的に繋がりました。そこで向こうの担当に

「急いでこの電話を大阪本社のホットラインで社長に繋いでください!」

そしたら担当は

「あー、なんか関西大変みたいやねーww」

ほんとムカつくどころの騒ぎではなく、だいぶ年上の人でしたが

「えーからはよ繋げぼげ!!!」

と。


なんとか社長にも繋がり、

「本社に出てこれるなら出てきてくれ、だが無理はするな」

と。

身支度をして家を出る。母は「危ないし私一人になるのが心細いから、お願いだから行かないで」と言ったのですが、当時の会社員は会社が最優先。母に「ごめん」と言って出かけました。

とはいえ、僕は近隣のバス停からバスで最寄り駅まで行き、そこから電車で20分という通勤経路。

まずバスがこない。なんとか来たバスに乗って、駅に着けば、改札周りで黒山の人だかり。電車も動いてない。

なんとか徐行運転を繰り返してる電車でじわじわ我慢しながらようやく会社に着いたのはお昼を回ってました。

そこで、僕以下、辿り着けた社員に社長が言い放った。

『まずは被災地にいる社員の救済だ!! 近所のスーパーで水や食料、カイロとか必要なものありったけ買い込んで来い!!』

社用車の1BOXで僕と先輩らで、ほんとこれでもか!という位、品々を買い込み、帰ってきたら他の先輩たちが神戸市内への侵入ルートを検討していました。

主要の国道は軒並みだめだ

六甲山から有馬経由なら道は通れるらしい


その情報を信じて、僕ら救済隊の車は、六甲山を目指しました。

出発は16時頃だったと思います。

しかし(当たり前ながら)、そのルートは大渋滞。

結局僕らが神戸入りできたのは、翌朝未明でした。


その時目にした光景が今でも忘れられません。

ビルや道路は倒壊し、そこここで燻る煙があがっている。

電信柱は倒れに倒れ、火花を散らしている。

死体(であろうか?)という黒焦げの物体も見ました。


なんだこれは

映画の世界やろ

現実ちゃうやろ


しかし、そうも呆然としている暇もなく、僕らは車を走らせました。

助けを求める人たちも路傍にいっぱいいました。

でも僕らは泣きながら、ごめんなさいといいながら通り過ぎました。


到着してまずは社員の自宅を回り、安否確認と差し入れ配布をしました。

そして、神戸に店舗もあったので、そこを拠点として復興支援を社として行うようにと社長からのお達し。

会社はいわゆる「総合物品レンタル」会社で、企業向けには主にゼネコン相手に工事現場の「仮設ハウス」から、中の事務備品一式をレンタル、個人向けには、店舗で「スーツケース」や「キャンプ用品」などをレンタルしていました。

その「個人向け店舗」が神戸ハーバーランドにありましたので、一通り片づけしたあと、僕らはその店舗のソファで死んだように眠りました。

翌、お昼ごろ。

社長から「店舗にあるレンタル商品を、被災者の皆さんに無償で配れ!」

というお達しが。

たしかにうちには、自転車はじめ、スーツケース、ポータブルキャリー、ランプ、発電機、寝袋、テント、、、この状況で被災者さんに必要なものが山ほど揃ってる!

みんなで店頭に、今使えそうなものを並べて、POPで

「自由に持って行ってください!返却はいつでもいいです!!」

と書きました。

もう、瞬殺でなくなりました。少しでもお役にたてたかな。


次の仕事は、社の上得意先であるT工務店が、この地神戸が拠点の大企業で、T店が建てたビル建物を復旧しにくるT社スタッフのために、寝泊まり用の簡易ベッドの設置を行いました。

なんだかんだで1週間ほど僕始めみんな神戸店に泊まり込んで作業しました。

そのうちに、一回家に戻れるタイミングがあったので、着替えと洗濯と母の安否を確認しに戻って、また翌日には神戸入り。

次の仕事は、被災者さんのための仮設住宅建設です。

社として業務的にそっち方面には強いので、大阪府と兵庫県と掛け合って予算を捻出させ、仮設住宅建設の旗振りを当社も担うことになりました。

ワンマンで強引な社長でしたが、そういう時の行動力はすごいな、と。


そして僕は、、、

入社してまだ2年目のペーペーながら、若くて独身で男でつぶしがきく


という理由で(今ならパワハラだ)、建設現場の現場監督を任されることに。

もう大変です。資材運んでくる業者も建込みをする大工さんも、百戦錬磨のおじさまたちで、ペーペーの僕の言うことなんか聞きはしません。

それでも、、ハウスが建ち、つぎにエアコンを設置していく段になって、、

「この区画から順番に」と僕が仕切ってると、

入居予定であろうおばあちゃんが、泣きながら僕の胸倉をつかんで、


「うちに早くエアコンいれてよ!なんで後なん?!死んでまうやん、お願いやからはよう!!」

と詰めよられました。

僕にだってどうしようもないんだ。

そうしてあげたいけど、あなたが「みんな」なんだ。


「僕らだって頑張ってやってるんですよ!!お願いやからもうちょっとだけ待ってください!お願いやからー!!」


僕も泣きながら叫んでました。もうその時も2週間も家に帰れてない。


僕の1.17の思い出。

思い出したくもない辛いことばかりだけど、

忘れてはいけないし、伝えていかねば。


炊き出し、ドラム缶風呂、、、

寝袋渡して「ありがとう、ほんとにええの?」

と言ってくれたあの人。

ソウル・フラワー・ユニオンの

「満月の夕」


忘れない。


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