つらいからマシュマロ
「つらいから食べたい」
「マシュマロが食べたい」と話しているお子さんを見た。
お子さんは、親御さんに対してこのような主張を繰り広げている。生きるって恐ろしいことだなと思った。お子さんと親御さんの間で、事前に「ドリルをやったらマシュマロを食べてもいいよ」のような契約が交わされていたとしたら、お子さんには「報酬」として事前に設定した数のマシュマロが与えられるべきだと思う。だが、「“つらいから”マシュマロを与えられて然るべき」という考え方は、大丈夫なのか。
この考え方を採用している人はわりと多くおり、私とてよく絡め取られる。苦しんでいる人には助かってほしい。マシュマロで助かるのであれば、マシュマロを渡したいという気持ちにもなる。
しかしマシュマロが犯罪行為や自己破壊行動、「空から女の子が降ってくるべき」のような話なのだとしたらどうか。ダメだと思う。助からない。それらはつらさに対する治療としておそらく適切ではない。マシュマロを食べることは治療になるのだろうか。マシュマロは薬なのだろうか。私はそうではないと思う。マシュマロを与えられて一時的に楽になったとはしても、きちんと助かるようなことはないのだと思う。マシュマロは薬ではない。「つらいからマシュマロを食べたい」と話すお子さんは、そもそもは「ただマシュマロを食べたい人」だったのではないか。
報酬を得るためのあらゆる努力が「苦痛」に回収されて、報酬が治療と混同されてしまう事例はそこかしこに転がっている。「苦痛を得れば治療兼報酬も得られる」「苦痛を得なければ治療兼報酬も得られない」という考え方に問題はないのか。多分、ある。より多くの報酬を期待して、より多くの苦痛を求めるようになったり、報酬を治療として捉えるようになってしまう問題がある。
苦痛が報酬を「許可」されるための有効打として取り扱われている。「苦痛」を緩和するためにマシュマロが与えられるべきだという許可の交渉が行われている。「苦痛」に与えられるべきなのは、苦痛を取り除くための「治療」であって、「報酬」ではないと私は思う。
治療兼報酬
「苦痛を得たのだから、然るべき治療=報酬が与えられるべき」という発想は、生きることの大半が辛くなる考え方だと思う。先に紹介したお子さんが「マシュマロ依存症」のようになってしまったら怖い。苦痛に対する治療としてマシュマロを扱うとなると、マシュマロが本来持っている良さも、お子さんの中で損なわれていくのではないかと感じる。マシュマロを食べることにより、本当に苦痛が取り除かれるのであればそれでいいと思うのだが、そんなことはないように思う。
やらなければならないドリルの枚数が増えていくにつれて、もっと大量のマシュマロが必要。のような気持ちになったりはしないのか。マシュマロは本当に、ドリルを行う苦痛に対する「治療」なのか。食べると嬉しい気持ちになれる、報酬ではなかったのか。
私はいま「報酬は報酬、治療は治療として扱わないとまずい」と考えているけれど、意識しなければすぐに忘れてそこを一緒くたにし始めてしまう。「善と美は同じものとして捉えられやすい」ぐらいの感じで「治療と報酬は同じものとして据えられやすい」のようなバグが、そんなに少なくない人間の中に存在しているような気がしている。
〇〇したから〇〇していい
・つらかった「から」マシュマロを食べてもいいはず
・ストレスが溜まっている「から」酒を飲んでもいいはず
・しんどい「から」ゲームをしてもいいはず
これらは「から」の前につく理由がなくても「やってよい」ことだと思う。「つらい・しんどい・ストレスが溜まっている・疲れている(苦痛)」がなくても「やってよい」し、大きな苦痛があったとしても「食べ過ぎ」「飲み過ぎ」「やりすぎ」は「よくない」ことだなと私は思う。「よくない」ことを行うタイミングのある人を、特別悪い人だとは思わない。
これらはなんとなく「いいよ」と言わないと人非人扱いされそうなラインナップだし、「苦痛を癒すために〇〇が必要」だと話されたら「そうなんだね」と言いたくなる。しかし、冷静に考えて、治療にはなっていないのではないか。本来はシンプルにそうしたいだけではないのだろうか。マシュマロを食べたいから食べたいのではなかったのか。
お子さんは生殺与奪のほとんどすべてを親に頼るしかない。親の許可が得られない限り、得られるものは極端に少ない。そういった状況で、治療とすり替えたり同一視しながら報酬を求める形になるのもまだわかるのだが、大人になってもそういったことを続けている人はなぜそうなるのか。誰にどういう道理で許可を求めているのか。
苦痛本位制幻想のアンチ
人は苦痛、疲れや我慢やストレスとは関係なく、「したい」から何かをしていると思う。報酬を得たいから、報酬を得るためのことを行っている。そういったことを自覚できなくなると、人間は自分の「したい」を隠蔽するための努力をし始める。何か大いなるものの意に沿って体を操縦しているかのように考え始めるし、報酬を得るために「苦痛」を認められたがる。自分の欲望の主体が自分であることを見失う。そうして自分を無私の泥人形のように感じる羽目になる。「苦痛があるから治療をしなくてはならない」のようなていで「報酬」を、必須のものとして取り扱うようになる。この世は、「より多くの苦痛」に対して「より多くの報酬」が与えられるシステムにはなっていないはずなのだが。虚に向かって許可を求め続ける。
そうなると、他人の「したいからする」に対して、「相手の苦痛は、自分より大きい報酬を得るに値する苦痛なのかどうか」のようなことを考える羽目になったり、自分の苦痛をより大きく取り扱い、「苦痛に見合った多くの報酬」を与えてくれると信じられる場所を探したりする。「これまで社会にすげえ割を食わされてきたじゃないですか。リスクを負わなきゃ手に入るものなんてない。その苦しみを乗り越えた先にでかい金があるんですよ。」(ニュースで見た詐欺の受け子勧誘がこういった感じだった。なお受け子は大体普通に捕まる。)
苦痛に対して必要だと思われる「治療(マイナスをなくすための動き)」は治療であり、「報酬」は報酬(0以上のプラスを得るための動き)のはずなのだが。治療と報酬を同じものとして取り扱うと、せっかくの報酬が報酬として受け取れなくなってしまうし、不必要な苦痛をベットするようなことにもなりかねない。苦痛と報酬は関係がない。このことを忘れてしまうと、命もマシュマロも勿体無い。
完璧なマシュマロ
苦痛を根拠として「報酬」を得てもいいか悪いか・与えられるべきかそうでないかを考えていると、考え方のすべてがバグっていくのではないかと思う。許可を得られるか得られないかは別として、マシュマロを得るために動くかどうか、得られたマシュマロをどのように取り扱うかを決めるのは、自分以外の何者でもないのに。
自分はもう大人だから、親の許可がなくてもマシュマロを手に入れることができる。それなのに、誰か何か、自分とは別の存在から、「食べてもいいよ」と許可されるプロセスが必要な気がして焦る。ストレスが溜まる「から」、許可とマシュマロがもっと必要になる。自分はマシュマロを食べることができる、食べてもいい。よかった、自由だ。マシュマロの食べ過ぎで血糖値が乱高下する。情緒を安定させるためにもっとマシュマロが必要になる。血糖値が乱高下する。欲しかったマシュマロが一体どういう形をしていたのか、もう何もわからない。もうすでにどのマシュマロも魅力的ではなくなってしまっている。もうマシュマロなんて食べたくないのに、マシュマロがやめられない。完璧なマシュマロはどこにあるのだろうか。
マシュマロ依存
この世は、「より多くの苦痛」に対して「より多くの報酬」が与えられるシステムにはなっていない。ふうん、システムがそうだとしても、自分だけは自分に必要なものを与えてあげよう。マシュマロの数が増えていく。どのマシュマロも、自分の苦痛を完璧には癒してくれないことに絶望する。苦痛に対して「妥当」だと感じられる報酬がない、ストレスが溜まる。マシュマロが膨らむ。完璧なマシュマロが手に入らないことによるフラストレーションを、思い描いたほどには完璧でないマシュマロで癒す。つまらないものだけどないよりはマシ。つまらない。苦痛が張り詰めていく。完璧ではないマシュマロの食べ過ぎで具合が悪くなる。それでもマシュマロはやめられない。自分の苦しみが足りないから、完璧なマシュマロが手に入らない。いくら食べても具合が悪くならない、一粒ですべてを解決してくれるマシュマロが手に入らない。自分の苦痛は「よいマシュマロを手に入れているように見える人々と比べて」たいしたことがないということなのか。いや、そんなことはない。自分の苦痛、努力や我慢は、完璧なマシュマロを手にいれることに値するはずだ。そう認定しないものはおかしいし、なんだったら、「自分と比較して苦痛の軽いもの」「我慢の足りないもの」「不真面目なもの」が、自分よりもいいマシュマロを手に入れているのはおかしい。狂った天秤は正さなければならない。マシュマロがはじける。
そんなの関係ねえ
苦痛の大きさと報酬の大きさは関係ない。マシュマロを食べたがっているお子様は、単に「マシュマロを食べたい」と言ったほうがいいのではないかと思う。苦痛への治療ではなくただの報酬として、適量のマシュマロを与えてもらえたらいい。私は理不尽に米を食べている。許しは得られないしいらない。
余談(オーバーおにぎり)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?