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情けないわたしの所信表明


毎日生きていると、ものすごい勢いでいろんなこと(本当に、いろんなこと)を忘れていく。
朝起きたら、アラームの音、エアコンの音、外を走る車の音が聞こえて、その車の音で一瞬何かを想起したりして(例えば、青い車、♪きみの青い車で海へ行こう~♪)、アラームを止めて、止めたときにスマホの画面を見て、寝る前に比べて何かしらの通知が増えているような気がするけど一旦放っておく。ベッドから立ち上がったら床が冷たくて、カーテンの足元からなみなみの光が見えて、それを見たらなぜかお腹がすいて、何か食べようと思ってキッチンに向かいながら、いやその前に顔を洗って歯を磨かなきゃ、と思って洗面所にたどり着く。
起きあがって10分もたたない間に、こんなに多くの情報がわたしを通過する。というか実際はもっとたくさんのものが見えるし聞こえるし頭に浮かんでくる。とても書ききれない。
朝ごはんを食べはじめたら、起きたときに聞いた車の音はもう忘れているし、食べ終わるころには、パンの二口目をもぐもぐやりながら考えていたことを思い出せなくなっている。

忘れちゃったな~と自覚しているのはほんの少しで、実際はとんでもない量の情報がわたしたちに入ったり生まれたりして、知らないうちに流れ去っている。こんな感じのことに高校生のある日突然気がついて(遅いか笑)、それ以来、わが人生のテーマのひとつに認定されています。

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知覚したもの・感情すべてを覚えていなくても何にも困らないし、そもそも覚えようともしないから「忘れた」判定にもならないでしょ、と言ってくる自分も一応いる。
でもどうしてもこわいし、さみしいし、何といってもくやしい!
「今の自分」が情報の濁流(;車の音、そこから想起したスピッツの曲、スマホの通知、通知を目にしたときの感情、なみなみの光……で出来た濁流)に飲まれていて、30分前頭に浮かんだことはもうずいぶん遠くで違うものと混ざってしまい、何だったのかもわからない、みたいなイメージ。
この濁流に対して、くやしさが止まらない。
生きていたら自動的に発生してしまうそれぞれの濁流に、わたしも他の人も飲み込まれているということが、本当にくやしい。
飲み込まれたまま、あなたの話をきいたり、あなたのことを考えたりするのが、すごくいやだ。
全世界でたった一人、わたしだけが持てる責任の元で、わたしが決めた「速さ」であなたと(ひいては、世界と)関わりたい。あなたがわたしについて考えてくれるときも、本当はそうしてほしい。

でもわたしにもあなたにもそれはできない。生きていたら情報は増えつづけて、わたしたちの処理能力には限界があるから、濁流をコントロールすることはできない。苦しー。

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ただ、一つだけ(※わたしにとっては、一つだけ)この濁流に抵抗する方法があって、それは【書くこと】だと思っている。単語の羅列、ちょっとした文章、短歌、誰かへのLINEで、濁流に抗う。

面倒なこだわりだと思われるかもしれないけど、わたしは「忘れないように書いている」わけではない、ということをここで強調しておきたい。
何かをまるごとそのまま完全な状態で言葉にすることは絶対に無理だと思うから(無理というか、そんな単純な対応関係を受け入れるものではない、言葉って! わたしはこれを言葉や、言葉を使うわたしたちの力不足として考えない、むしろ可能性だと思う)、【書くこと】に保存機能は期待していない。
文字にすればそのときの情景や感情をずっと残しておける、などとは考えていない。

ではどういうつもりなのかというと、濁流のなかに自作のセーブポイント(ちょっと違うか……)、案内標識、看板……を立てる感覚で、いろいろ書いている。自分のそばを猛スピードで流れていく情報(形なし)から、言葉(形ありなしの間)を呼び出して、【書く】ことで、文字(形あり)で出来た標識、看板……を立てる。今だってそうだし、これまでも、ノート、原稿用紙、ipod、スマホのメモ、twitter、LINEに標識(標識とよぶことにしました)をいっぱい立ててきた。
標識を立てたあとも、もちろん濁流には飲まれつづける。でも、あっぷあっぷしながらも標識を目にして、標識の元になった「情報」に思いを馳せたり、新たに「情報」(感情)が生まれたりしたのならそのとき、件の濁流とは別の、標識を起点とした流れが生まれるような気がする。
その流れの、うつくしく穏やかなこと!!

標識を立てて、濁流から独立した流れを発生させること。これが濁流からは絶対に出られないわたしの闘い方です。(※ややこしいし余談だけど、【書くこと】の意味、としては、この話は一部でしかない、たぶん……)

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ちょっとずつ「大人」になるにつれて関わる人がどんどん増えて、自分のストレスを少なくして他人にも迷惑をかけないようにするには、濁流にうまく乗るべきなんだろうなということを最近よく考える。でも否応なしに進む現実とは別の軸にあるわたしだけの流れのことは、死ぬまでずっと大切にしたくて、だから、標識を立てたり眺めたりすることにもっと意識的になっておきたいと思った。
 
そういうわけで、このnoteをはじめてみました。
でも一つ目の投稿にこんなに時間がかかるとは思わなかった……。もう秋だよ……。
読むの楽しみだって言ってくれていた人が三人いたんだけど、呆れちゃってるよね、絶対……。
大したこと書いてないし……。すいません……。

わたしが立てる(た)標識や、そこからはじまるとぎれとぎれの小川たちを、よかったら見守っていってください。

2023年10月4日 たなか

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