インディゴベルとは藍鈴である

あ、今日は怪文書じゃなくてわりとまじめなやつだよ。これからしばらく藍鈴に関するオタク語りをするので、その基礎となる私の考えの根底をちょっとだけ整理してみた。

インディゴベル。高森藍子と道明寺歌鈴。藍鈴。すき。
これで終わっていい気がしたけど、あんまインディゴベルを語るオタクが現れないのがとても悲しいし、男もすなるなんとやらって感じでざざっと持論を展開したい。なお当方は道明寺歌鈴のオタクなので藍子周りにあんま詳しくないのは内緒。
題名を見ればわかると思うが、私が今回注目するのは歌鈴と藍子からなるユニット名が「インディゴ・ベル」である点について。なお「・」を入力するのが非常にめんどくさいので以前も以後もその先も「インディゴベル」で通すけど気にしないでね。

ユニット名はユニットがどう在るか、を端的に示しているというのが個人的な前提。(ユニット名がまずあって後付け設定でこれを付加するという形もいっぱいあるような気もするけど)
歌鈴が所属しているユニットでいえば、「春霞」は紀友則の和歌から取られている(と桜の頃コミュにて明言されている)し、「可惜月夜」も明言こそされていないと思うけれどこれも同じく源信明の和歌から取られているとみて問題ないだろう。どちらも和歌の意味がそのユニットに込められた意味として機能している。

ではインディゴベルの意味とは。なんて言うまでもない。藍鈴をただただ英語にしただけ。これまでのインディゴベルの積み重ねも今回のほほえみDiaryのコミュもそうだが、色としての「藍」の要素が入っているわけでもなく、音を鳴らす「鈴」の要素が入っているわけでもない。単純に藍子と歌鈴の名前の羅列からとられただけのユニット名としか言えない。こういう言い方をするとアレだが、インディゴベルというユニット名には「藍鈴」というふたりの名前の羅列しか存在しない。それ以外のものがない。

ユニット名に込められた願いがただの名前の羅列であるということ。これを私は「そのままのふたりを見せればそれで十分だ」と解釈している。藍鈴は藍鈴なのだ。他のことばをもって藍鈴を説明する必要はまったくない。ただただ藍鈴であればユニットとして成立する。それがインディゴベルなのだと私は思っている。(もちろんこれは藍子も歌鈴もちょっと特殊な体質を持ってるから成立することだとは思うけれど)

こういう立場でみると、「ほほえみDiary」の楽曲やコミュの見え方が少しだけ明確になる。藍鈴はただ藍鈴のままでいればいい。そうなると、日記というテーマは非常にシンプルかつ正鵠を射た答えになる。さらにその日記の名前が「藍鈴ダイアリー」ってね。そのまんますぎるが、そのまんまなのが正解なのだ。藍子と歌鈴が過ごした日常そのものがインディゴベルなのだ。

とまあ、ちょっと急ぎ足でぱぱっと書いたので雑な文章になったが私の藍鈴観はだいたいこんな感じ。いまさらだけどタイトルが小泉構文だな

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