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舞洲のスポーツ産業を支える裏方達の話。 エヴェッサ×オリックス×セレッソ 営業マン対談

<掲載日:2018年7月23日>

※こちらは過去に実施した舞洲Voiceのインタビュー記事になります。

スポーツチームの運営において大きな意味をもつスポンサー収入やチケット収入をいかに勝ち取るかというのは、各チームの営業マンの力の見せどころだ。舞洲にホームを置く3つのプロスポーツチームにおいてもこれらが収入源の柱となることには変わらない。今回は、大阪エヴェッサ・清水省二氏(営業部ジュニアマネージャー)、オリックス・バファローズ・山本康司氏(リテール営業部 チケットグループ長 兼 ファンクラブグループ長)セレッソ大阪・猪原尚登氏(営業グループ グループ長)、という、それぞれチームの営業マンを招き、入社の経緯から、チームの成績など外的要因に影響されやすいスポーツチームのスポンサー集めの話を中心に語り合っていただいた。

インターネットが無かった時代、とにかく足で稼ぐしかなかった


-まずは、お三方がスタッフなった経緯を教えてください。
エヴェッサ・清水:私は前職で旅行会社にて営業をしていました。ただ、スポーツ事業に昔から興味があり、ある日エヴェッサの募集を見つけたので、応募しここの営業職に就きました。

セレッソ・猪原:私は1997年に新卒で入社しました。Jリーグが今年25周年なのですが、僕は入社して今年22年目になりますね。もともと僕も小学校からサッカーを始めて、大学まで体育会サッカー部でプレーしていました。日本でJリーグが始まった年はちょうど大学に入るタイミングでしたね。今みたいにスポーツビジネスやスポーツマネジメントは大学に学科もなかったですし、教わることもなかったんです。選手になりたいと昔から思っていたのですが、それを諦め学校の先生になろうと教職の授業を取っていました。ただ、東京の大学を卒業して大阪に帰ってきてもすぐに本採用されなかったんです。新卒の年は非常勤講師の枠に申し込んでいました。

たまたま僕の実家が長居陸上競技場から自転車で10分くらいのところだったのですが、1997年のセレッソは、Jリーグバブルが弾けてどん底ぐらいの年で観客動員も1万人を切ってしまっていたときでした。そのときはオフィスが梅田から長居に移ったタイミングでもあって、地域密着という言葉を掲げて地元を中心に折込チラシを配布していたんですね。もちろん私の実家のポストにもチラシが入っていたのですが、試合情報の下に小さく社員募集と書いてあるのを見つけたんです。要は長居に来て人が足りないから地元の人を採用したほうが良いだろうということだったんですね。

営業が何をするのかは正直わからなかったのですが、応募してみたところ、縁あって通ったという流れです。

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<セレッソ大阪・猪原さん>
オリックス・山本:私は大学まで野球をやっていたということもあって、学生時代から球団で働きたいという思いは持っていました。とはいえプロ12球団に直接入れるチャンスは少ないから、球団のグループ会社に入社しその後、野球に携われたら良いかなと思っていたんです。球団は新卒採用をしてなかったですからね。そこで球団のグループ会社であるオリックス自動車㈱の採用試験を東京で受けて、新卒で入社しました。2年間、自動車リースの営業をしていたのですが、球団のの営業を強化をするにあたってグループ内で公募がありそれに応募をし、球団で働くという夢が叶ったわけです。入社3年目で球団に移り、今シーズンで19年目となります。元々は出向という形でしたが、今は球団に転籍になっています。


-入社して最初はどのような業務をしていたのでしょうか?

エヴェッサ・清水:最初はチケットのセールスに携わることになり、企業や団体向けのチケットと、いわゆるB to Bのチケットセールスをしていました。今は新規開拓事業部という部署の責任者として、スポンサー企業を取りに行くことをメイン業務として担っております。スポンサー営業というのは獲得してきて終わりではなく、アフターフォローも非常に大事になってきますし、そこの部分も注力して取り組んでいます。

Bリーグは現在シーズンオフなので、来シーズンのシーズンシートを多くのファンの皆さまに購入していただこうとしています。

セレッソ・猪原:僕が入社した当時はファンの方も「チケットってどこで買ったら良いんだろう」という状態でした。コンビニで簡単に発券できる時代ではなかったので、チケットぴあやセゾンのチケットカウンターに行って買わないといけない。もしくは当日券。もちろんオンラインチケットなんか皆無の状況です。それをいつでもわかりやすく買えるようにスタジアムの半径5kmぐらいのところのたばこ屋さん、喫茶店、あとは商店街などを回って「チケットを委託で良いから置いて下さい」と飛び込み営業的な感じでお願いしていました。

僕が入った時は20店舗ぐらいあったんですが、それを増やそうということで、自転車でいろいろなところを回りました。途中から軽自動車になりましたけど、自転車で集金行ってチケット置いてというのをずっと2年ぐらいそれを中心にやっていました。

オリックス・山本:オリックスに入社してからの19年で業務は色々と変わっています。最初は年間席をとにかく売ってこいという部署で、注力していたのは年間席の営業でした。商店街や法人企業を中心に、神戸市内の会社に電話をかけて飛び込み営業をするというのをやっていました。

-セレッソの猪原さん、オリックスの山本さんは飛び込み営業をしていたと話されていますが、エヴェッサの清水さんも飛び込み営業をされていたのでしょうか?

エヴェッサ・清水:飛び込みというのは基本してないです。電話をしてアポイントを取ってから商談に入るという流れです。

セレッソ・猪原: そのアポは要は飛び込み電話ですよね?

エヴェッサ・清水:そうですね。新規で電話をして「大阪エヴェッサというプロバスケチームをご存知ですか?」という話から始めるのですが知らない方が半分ぐらいいます。最近は、「知っているよ」と言ってくれる方がだいぶ増えてきたかと思います。セレッソさんとオリックスさんを知らない府民はほとんどいないと思うんですが、僕らのチームの世間認知度はまだまだそのレベルまで到達していなくて、この電話も1つの周知活動になっていますね。

オリックス・山本:相手先は法人企業ですか?

エヴェッサ・清水:法人ですね。法人相手にHPを見て電話をするところや、何かのつながりで電話をさせてもらうところもあれば、街を歩いていて「電話をしてみようかな」というのもありますね。常にアンテナを張って営業活動を行っています。我々は今、中小企業を中心にスポンサーが約500社ぐらいいるんです。

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<大阪エヴェッサ・清水さん>


営業=お金を稼ぐことは全て担当する



-スポンサー企業に対する営業をされることはありましたか?

セレッソ・猪原: 最初の2年間はチケット関連のことをやっていました。その後はグッズの担当をして、兼務でスポンサー担当もやりホームタウン関連事業も携わって、と。その後、ファンクラブの担当を経てスポンサー営業に戻ってきました。プロスポーツチームの営業として、お金を稼ぐものは全て担当してきましたね。今、僕の担当している業務で比重が大きいのがスポンサーセールスというところです。スポンサー集めは知名度や強さが影響するということもあります。ただ、それに頼っていると、例えばサッカーだとJ2に落ちたり優勝したりすることでスポンサー料の金額を変えるというような話にもなるので、勝った負けたではなく“チームとしてこういうことをやっています”という話をベースに営業しています。

-猪原さんと清水さんが入社したときのセレッソとエヴェッサの知名度は高くなかったと思います。ただ、オリックスは山本さんが入った当時にはある程度の知名度があったので、その分営業は楽だったというようなことはあったのでしょうか。

オリックス・山本:私が入った時期はチームとしても話題性が強かったときなんです。95年に震災があった年にリーグ優勝、96年にはリーグ優勝&日本一になっています。私が球団に入ったのが99年なのですが、当時はまだイチロー選手もいました。また、球場もプロ野球では初の総天然芝のボールパークに改修し注目されていて、そういう意味では飛び込み営業はしやすかったんですよ。「オリックス球団で営業をしています」と言うと、「球団の人が来た」と迎え入れてくれて。当時は“がんばろうKOBE”という合言葉で神戸に活気が戻りつつある時期だったので成約になるならないは別にして、話だけは聞いて頂くことができました。
ただ、優勝を経験した後は、チーム成績はどん底に落ちてしまいました。3年連続最下位とか、監督も1年おきに変わるという事態でした。スポンサーも年間席の営業も、あの時は非常に厳しかったですね。ただ、今振り返ってみるとそれも、営業マンとして成長するには、いい経験だったかと思います。
球団では、様々な商材の営業を行ってきましたが、動かす金額も大きかったスポンサー営業は成約に至るまでの過程も含め、面白かったですね。

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<オリックス・バファローズ・山本さん>


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