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“無敵の人”、おしゃれ、適応

「まなざしの地獄」読了。感銘を受けるあまり、この本を紹介していた人(Twitterでフォローしてるだけの人)にお礼のメッセージを送ってしまった。

「日本の社会学の古典」として紹介されていて、読んでいる間はそうなの?と思ったけど、解説まで読んだら納得した。(わざわざ難しい単語や漢字がでてくるあたりもたしかにそういう本っぽく、読みにくかった)




この本は今で言う「無敵の人」が生まれる背景を社会構造や統計と絡めて読み解いている。68年に実際に起こった事件の犯人(N・N氏)の人生を追体験するような本だった。
ほとんどの人というか、おそらく誰もが経験するであろう、自分より洗練された人々(正確には社会階級の高い人)を前にして自分が惨めに思える気持ちが生まれる社会の構造。
それに追い詰められ精神面でも生活面でも行き詰った結果、関係のない人を何人も殺してしまう事件は、私が認識していたものでは2008年の秋葉原の事件しかなかったけど、50年以上も前から何度か起こっていたということを初めて知った。

今まではその気持ちを自分の経験からしか考えたことがなかった。他の時代の人たち、たとえばこの本が取り上げている団塊世代の金の卵とされていた人たちがそういった経験をした可能性があるとはあまり考えたことがなかった。
考えてみれば確かにそういった辛さを経験しそうな条件ではあるものの、同じ経験をしている人が大多数だろうから、そこまでの絶望にはならなさそうな気がしていた。でも確かに、階層は昔からあるんだから、その感覚自体は時代に限らずあったはずだ。
時代や場所や生まれによって多少違いはあっても、この感覚は大まかには共通していて共有できるものなのかということに、なんとなく「救われた」に近い感覚を覚えた。ほとんどの人と共有できる痛みなら、それを発生させる仕組みをなんとかする方法もありそうだ。




大きな事件を起こすに至る人は私たちの極限値なのだという話があった。逆に言えば、ほとんどの人は多少同じ苦しみを感じることはあっても、そこまで致命的なことになっていない。なぜその人たちはそこまで傷つかずにすんだのかが気になる。
鈍さや怠惰さの問題とも言えてしまいそうだけど、自分という存在を否定された経験の多さにもよりそうだ。
想像しようとしても、私も割と傷ついてしまうタイプなので、傷つかない人の心理は想像できない。なんで平気なんだろう。

私は社会から適応(社会的に高い地位に見えるように演技すること、例えばおしゃれな身なりや高級品を身に着けること)を求められることに気づいた年頃のときにわりと抵抗を感じたけど、N・N氏は積極的に適応しようとはしていた。その上で、それがうまくいっていない(他人から演技と見透かされている)ことに気づいたときに絶望していたという状況だろうか。
だとしたら、傷ついてしまう人とそうならない人との違いは適応のうまさ、センスの問題なんだろうか。




私が傷つくのは、自分で見ても自分が「それらしく見えない」ことがわかるときなような気がする。きっと他人の目にも哀れなんだろうと想像して悲しくなるから。それに、変わろうとする=元の自分を否定する(適応しようとする価値観で否定されている自分の特性に向き合う)ように感じて辛かったのもある。
否定される特性を持っていると認めることは、自分はこの価値観の中で恥ずかしい存在であると認めることだと捉えていた。
傷つかずにいられる人は、自分ではうまくいっていると思えているだけだったり、たまたま同じような認識・基準の人と仲良くしているから気づかず、傷つかずにすんでいるだけということもあるかもしれないが、否定される特性を持っていることをあっけらかんと認め、落ち込まずにただ対処しようとできているなら、否定される特性と自分の価値をつなげないということができているんだろう。

でも依然として、恥ずかしいということを理解しながら、なぜ自分の存在を恥ずかしいと思わずにいられるのかがいまいちわからない。なんとなく、恥ずかしいと思っていることを人に知られてしまうことの方が恥ずかしいと気付いているからにも思える。
メタだ。しかもメタ具合が絶妙なところで止まっているのが不思議だ。


久しぶりにこういう本を読んでみて、やっぱりこういうものに触れたときの興奮というか充足感が、自分にとってはかなり大事な気がする。
すごくエネルギーがいるから今まではそういう気持ちを無視して社会人生活を送ってきた(社会に適応しようとしてきた)けど、こういう時間を大切にできる生活を送っていきたいと改めて思った。

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